織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で起きた長篠の戦い(1575年)とは、どんな戦いだったのか。歴史研究家の河合敦さんは「『大量の鉄砲が騎馬隊を退けた』と教科書などにも書かれているが、最新の研究ではいくつもの異論が出ている。武田方が破れたのは、兵種の違いではなく、兵力の差だったのではないか」という――。(第1回)
※本稿は、河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
「武田の騎馬隊vs織田・家康の鉄砲隊」は史実なのか
5月21日の早朝(朝6時頃)、武田方の最左翼にいた山県昌景の隊が徳川方の大久保忠世の隊に攻めかけたことで、設楽ヶ原を舞台とした有名な長篠合戦がはじまったとされる。
この戦いでは、信長は武田騎馬隊の猛攻撃を馬防柵で巧みに防ぎ、足軽鉄砲隊を三段構えにし、3000挺の連射によって武田軍を大敗させたといわれてきた。
現在の教科書にも「三河の長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼軍に大勝」(『詳説日本史B』山川出版社2020年)とある。
だが近年、この定説には、いくつもの異論が出されるようになっている。そもそも、武田方に騎馬隊があったかどうかということについて疑問が出されている。
当時の日記や書簡など一次史料や、信用できる編纂資料(二次史料)では、そうした事実が確認できないのだ。
信玄の業績をたたえた江戸時代の『甲陽軍鑑』(近年、史料的価値が見直されている)などをみても、武田軍には騎馬武者は少なく、その多くが馬は家来に曳かせ、自ら槍を振るって奮戦したとある。じっさい、長槍隊が武田軍の主力をなしていたようだ。
ともあれ、武田軍といえば、騎兵が圧倒的多数というイメージがあるが、騎馬隊なるものは、江戸時代の軍記物が勝手に創作した幻らしい。ただ、相当な騎兵がいたと主張する研究者がいることも付記しておこう。