「長篠の戦いは特筆すべき戦いではなかった」
ただ、どれほど長篠の戦いが武田勝頼に痛手を与えたか、戦国の地図を塗り替えたかについては、これまた学者によって見解が大きく異なる。
たとえば笠谷和比古氏は「長篠の戦いは劇的であった」「武田方はこの戦いにおける惨敗でもって昔日の面影を喪うに至るのであるが、しかしながら信玄の遺産のゆえであろうか、武田家がただちに滅びるということもなく、守勢の状態とはいえなお甲信方面において重きを保っていた」(『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』ミネルヴァ書房)。
本多隆成氏も「長篠合戦では織田・徳川連合軍が武田軍に圧勝したため、それ以後、両者の明暗を大きく分けることになった」(『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館)とする。
金子拓氏は、このあと勝頼は北条氏との縁組みによって同盟を強化したり、軍役の再編成などにより「勝頼の基盤強化につながったともされ、敗北が7年後の天正10年(1582)における武田氏の滅亡に直結したとは、かならずしも言えない」としつつも、「客観的にみれば、長篠の戦いを期に、それまでの武田氏が支配していた領域が織田・徳川氏に奪われたことは間違いない」(『シリーズ実像に迫る021 長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権”』戎光祥出版)と論じる。
対して藤井讓治氏は、「武田の騎馬隊を迎え討ったと通説では語られてきたが、近年の研究成果ではそれほど特筆する戦いではなかったとの評価がなされている」「この戦いで勢力図が大きく変化したわけではない」(『人物叢書 徳川家康』吉川弘文館)と述べている。
家康を苦しめ続ける武田勝頼
このように長篠の戦いにおける歴史的評価については、学者によっても見解はバラバラなのだ。
ただ、武田軍を再編した勝頼は、翌年になると再び活動を活発化させ、北条氏、さらには上杉謙信と提携して再び家康を悩ます存在になっている。
これだけの敗戦なのだから、痛手を受けなかったわけがないが、それでも立ち上がってくる勝頼。おそらく若き好敵手に家康も戦慄を覚えたのではあるまいか。
しかも、我が子・信康が、そんな勝頼と手を結ぼうとしたとの嫌疑が持ち上がるのである。こうしてまたも家康は危機を迎えることになる。