残った天守閣も維持コストの捻出に悩んだが、観光ブームと国からの補助の拡充で救われた。備中松山城は交通不便で苦労したが、最近は「天空の城」の一つとして人気だ。
ただ、どこも解体修理が必要な場合には、費用もさることながら、観光客の受け入れが数年間できなくなるのが悩みのタネだ。弘前城(青森県)では天守台の石垣などを修復するため、天守を引っ張って仮天守台へ移動させるという「曳屋工事」が実行された。
大阪城は豊臣の豪華と徳川の清楚のベストミックス
太平洋戦争後の城下町では、天守閣復興がブームになったが、明治以降、初の事業は岐阜城で、明治43年(1910年)の博覧会のパビリオンとしてだった(現在の天守閣は戦後の復興)。
だが、本格的なものは、昭和天皇即位の御大典を記念した大阪城天守閣からだ(歴史的には大坂城だが、現在の施設は大阪城)。徳川時代の大型の石垣の上に黒田家蔵の「大坂夏の陣屏風」に描かれた豊臣時代の意匠だが、壁は豊臣風の下見板張りでなく白壁づくりと、ごちゃまぜである。
桃山風の華麗さと江戸風の清冽さの同居は、“ええとこ取り”で近代日本人の美意識にぴったり合い、各地の天守閣復元に規範を与え、昭和の名建築として登録有形文化財になっている。鉄筋コンクリート、エレベーター付き、最上階には高欄をめぐらした展望台、それ以外の階は博物館という、画期的なアイデアだったので各地で模倣された。
戦後は、戦災で焼けた和歌山、名古屋、岡山、広島、福山の天守閣が復興のシンボルとして再建された。熊本、会津若松は明治初年の写真が残っていたので、再現が試みられた。小倉のように幕末以前になくなっていたものや、富山のようにもともと天守閣などなかったもの、熱海城のように城跡でないところにも天守閣が出現した。