堀は都市化の進展で埋められていった。交通の障害になる、土地を活用したい、戦災の瓦礫を埋めたいといった理由のほか、悪臭が原因となることもあった。

逆に、高い山の上だと、材木にせよ石材にせよ搬出に費用がかかることから保存状態が良いことも多い。天守閣が残る唯一の山城である備中松山城(岡山県)は、朽ちるに任され、大正ごろは廃屋のようになっていたが、文化財保護の機運の高まりで昭和に入って地元の人たちによる修復作業が行われ、ギリギリのところで生き返った。

備中松山城
写真=iStock.com/ziggy_mars
備中松山城

地元民が「天守閣だけは」と保存費用を捻出

廃城令によって破却された天守は、その定義にもよるが、盛岡、会津若松、高崎、小田原、岡崎、新発田、小浜、膳所、亀岡、高取、尼崎、米子、津山、萩、徳島、柳川、島原、岡の18城だった。明治維新の時点で天守のあった41城(江戸時代の途中で失われた天守も20くらいある)のうち半数以上は保存されたのに、撤去が原則だったという誤解が多い。

戊辰戦争で反政府側だった藩の天守が壊されたという人もいるが、まったく関係なくこじつけだ。姫路、松江、松山(愛媛県)など典型的な佐幕藩だし、長州の萩では建築が一切残ってない。もし残っていたら国宝クラスだったのは萩だけで、良いものには愛着が強かったため、地元の人たちが天守閣を維持する費用だけは出そうとなったところが多く、それらは取り壊しを免れた。

明治時代に撮影された萩城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
明治時代に撮影された萩城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天守が残った23城のうち、高松と大洲は明治年間に崩壊寸前で壊され、熊本が西南戦争、水戸、名古屋、大垣、和歌山、岡山、福山、広島は太平洋戦争の戦災、松前は戦後の火事で焼失し、昭和の後半には現在の12城となった。

戦災で焼けたのは軍や軍事産業の施設があったところである。とくに名古屋、岡山、広島の3城はいま残っていたら国宝だっただろう。残ったなかで姫路、松山、高知もそこそこ大きな都市だが、天守閣は山の上にあったので助かった。丸岡城(福井県)は1948年の福井地震で崩壊したが、残った部材を元通りに組み立てたというエピソードがある。

丸岡城(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
丸岡城(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons