認知症患者と接するときは、相手の言動を否定せず、できることはさせてあげることが良いとされている。だが、正解はそれしかないのだろうか。ノンフィクション作家の髙橋秀実さんが父の介護の様子を記した著書『おやじはニーチェ』より一部を紹介しよう――。(第3回)
介護ヘルパー
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明らかに妻にこびへつらう様子を見せた認知症の父

「あ〜らぁ、いらっしゃい」

父はそう言って満面の笑みで私を迎えた。いや、私を、ではなく妻を、だろう。いきなり妻のほうにすり寄って手を握ろうとしたのである。力関係に敏感な父。見るからに彼女にこびへつらっていた。

「お元気でしたか? お父さん」

妻が丁重に挨拶すると、父は「あら、やだぁ」と妙な声を出して、こう続けた。

「元気、最高。バッチグーよ」
「ああ、それはよかった」

ふたりは握手を交わし、ひとまず私は安堵あんどした。「復讐」と言われていたので修羅場のような展開になったらどうしようかと心配していたのである。

衣服が散乱した家を片付ける妻に認知症の父がかけた一言

妻はまず仏壇で母に挨拶した。そして2階に上がってジャージに着替え、家の掃除にかかる。掃除というより家中の殺菌・消毒をするのだ。

父はトイレの後も手を洗わないので不潔きわまりない上に、好物のあんパンや煮豆を食べると、その手でいろいろな場所を触る。雑菌や糖分がテーブルや椅子、場合によっては畳や床にまで広がっているので、それを除菌用ウェットティッシュで丁寧に拭き取る。かかりつけ医からも「高齢なのでノロウイルスに注意してください」と指導されており、家全体を消毒しなければならないのである。

居間には服や下着が散乱していた。なぜなら父は手近にあるものを着る。家の中をうろうろしてそれを脱ぎ、また手近にあるものを着る。手近にある順に着ては脱ぎ、ということを繰り返すので、洗濯済みのものと洗濯すべきものの区別がつかないのだが、妻は一つひとつ広げて汚れや臭いを点検、仕分けして洗濯する。洗濯すると、父が手にとる順番、気温の変化などを予測してハンガーに干しておく。居間の散乱も彼女からすると想定内の移動らしい。

てきぱきとした妻の作業を、犬のようにじっと見つめる父。おもむろに彼女ににじり寄り、こう声をかけた。

「何か手伝おうか?」