「いいです」と断る妻に駄々をこねる父

やる気満々の風情なのだが、妻はきっぱり答えた。

「いいです」
「いいって言ったってさ」

父が言い返そうとすると、妻が遮った。

「お父さんは休んでいてください」

父は首を振り、こう言った。

「お姉さんが働いているのに、あたしが休むわけにはいきません」

労働者の矜持を示しているようなのだが、父が動くことで汚れや雑菌が拡散していくわけで、父にはその場でじっとしていてほしいのだ。

「お気持ちはいただきます。でも、お父さんはゆっくりしていてください」

妻が優しく声をかけると、父は「やだ」と駄々をこねた。

「お父さんは自分のことをなさってください」

そう言われて父の目が宙を泳いだ。自分のこと? 自分のことって何なのか、と傍らで聞いていた私も思った。

「テレビでもご覧になったらどうですか?」

何度断られても「手伝おうか?」

妻の問いかけが聞こえないかのように父は家の中をうろうろし始めた。探し物でも始めたようだが、何かを思いついたように戻ってきて、妻にこう言った。

「何か手伝おうか?」

妻は初めて言われたかのように「いいです。私がやりますから」と答えた。父は「いいですって言ったって」「だってお姉さんが働いているのに」と反復し、妻は「いいんです。お気になさらずに」と断った。このやりとりを何回も繰り返したのだが、繰り返しながらも彼女の作業は着実に進み、洗濯の合間を縫って彼女は2階に上がった。そして原稿校正の仕事を始めると、父はその隣に正座してこう声をかけた。

「ここにいていいか?」
「いてもいいですけど、私は仕事中なのでお話しできません」
「何か手伝おうか?」
「お父さんにこの仕事は手伝えません」

父は聞こえなかったのか、変わらぬ調子で「ここはあったかいな」と妻に話しかけた。そして近所の様子などを報告し、ひとしきり話し終えた様子だったので、私は「お茶でも飲もうか」と父を誘った。仕事の邪魔、迷惑だということに気がつかないのかと見るに見かねたのである。そして父とふたりで妻から後ずさりするように1階に下り、台所で湯を沸かした。テーブルにあんパンを並べ、お茶をすすると、おもむろに父が顔を近づけ、私にこう囁いた。

「2階に誰かいるのか?」

まるで母や妻を恐れているかのような仕草

何を言い出すのかと私は驚いた。

――いるよ。
「だ、誰が?」

おびえる父。

――エミちゃん。さっきから掃除してくれて。今は仕事をしているけど。

私がそう説明すると、父はきょとんとした。

「ほら、今、カタンって音がしたよな」
――したね。
「2階に誰かいるんじゃないのか?」
――だから、エミちゃんがいる。
「いるのか?」
――いる。
「いるんだな」

父は電話では、2階に母がいると言っていた。誰かはともかく「いる」ことを確認できたようだった。

「じゃあ、これだな」

父はそう言って、口にチャックをする仕草をした。「黙る」ということなので、私がうなずくと、父は野球のブロックサインのように、小指を立て、人差し指で天井を指し、口にチャックをした。意味としては「女」「天」「黙る」。呪を切るような素早い動き。母や妻を恐れているだけかもしれないが、まるで天照大御神などの信仰の原点のようだった。