関東大震災のとき、総理大臣は交代中、内閣は不在だった!2011年3月11日、日本を襲った100年で3度目の大震災。先の震災に学ぶ東日本の復興復旧の術とは何か。
村山は数日前から足元の社会党の動きが気がかりだった。半年前の94年6月、第一党の自民党に担がれ、旧与党側の海部俊樹元首相を破って首相となったが、社会党では非自民路線の右派グループが分党の動きを示し、党内対立は一触即発の情勢である。前委員長の山花貞夫(元国務相)を中心とするグループが離党、新党結成に走り出す寸前であった。集団離党となっても、与党の過半数割れは起こらないが、政権維持が困難になる可能性があり、村山は気が気ではなかった。
造反組の中核だった兵庫県選出の本岡昭次(後に参議院副議長)が述懐する。
「村山委員長誕生のとき、向こうはこちらの久保亘さん(後に蔵相)を書記長にした。久保さんは新党づくりを約束した。いよいよ新党結成となって、95年1月16日にホテルニューオータニで前夜祭を開いた。社会党以外の海江田万里さん(現経済産業相)、川端達夫さん(前文部科学相)らも発起人に入り、決起集会に25人ぐらい集まった。みんなで署名した。翌17日に総決起するのは前の年から決めていたんや」
ところが、大震災が襲った。
「このチャンスを逃したら、新党はつくれんと思うた。『これで村山政権が潰れたら、新政権をつくることになるけど、そんな場合やないという話になる』という声が出た。大震災と新党は別やと言うたけど、結局、流れた。向こうの側の野坂浩賢氏(当時は建設相)から『兵庫のワルガキが暴れるから天罰が下ったんじゃ』と言われた」
このとき、新進党幹事長だった小沢一郎(後に民主党代表)の知恵袋の平野貞夫(当時は参議院議員)は、16年後の今年2月、衆議院事務局勤務時代以来の長い国会経験を生かして、反菅派の衆議院議員16人に、決起するなら会派離脱届の提出という手がある、と造反作戦を指南した。
「実は村山内閣時代、社会党で山花グループが決起しようとしたときも、会派離脱届を出して除名、新党という筋書きで、私が提出する文書を書いた」
平野は打ち明けた。後の菅と同様、村山も大震災で命拾いしたのだ。
阪神大震災は大津波や原発事故はなかったが、当時としては戦後最大規模の災害だった。震災対策は多方面にわたった。なかでも問題となったのが自衛隊の出動であった。