<strong>石原信雄</strong>●1926年生まれ。自治事務次官などを経て、竹下~村山の各内閣で官房副長官。2006年、地方自治研究機構会長。
石原信雄●1926年生まれ。自治事務次官などを経て、竹下~村山の各内閣で官房副長官。2006年、地方自治研究機構会長。

自衛隊は中部方面総監部のある伊丹の部隊が真っ先に倒壊した阪急・伊丹駅に偵察班を派遣したが、本格的な災害出動は、午前10時頃に行われた兵庫県知事の要請に基づき、姫路の部隊が出動した。だが、神戸での救助活動は午後一時過ぎからだった。社会党の首相は自衛隊嫌いで出動要請をためらったのでは、といった批判が噴出した。事務の官房副長官だった石原信雄(現地方自治研究機構会長)が反論する。

「出動をためらったなんて絶対にありません。自衛隊が見えないと首相官邸に随分、電話がかかってきたから、私も気になって防衛庁の村田直昭防衛局長に電話で言ったら、『やっています。道路が大渋滞で、主力部隊が入っていないだけで』と言っていた。それが実態です」

兵庫県知事だった貝原俊民(現兵庫地域政策研究機構理事長)は、本人の言によれば、当日、兵庫県庁から約4キロ離れた知事公舎で大地震に遭い、7時過ぎまで公舎で各所と連絡を取ってから、渋滞に巻き込まれながら、8時過ぎに県庁に登庁したという。

自衛隊への派遣要請の権限を持つ貝原は振り返って述べている。

<strong>貝原俊民</strong>●1933年生まれ。自治省入省後、1986~2001年、兵庫県知事。現在、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。
貝原俊民●1933年生まれ。自治省入省後、1986~2001年、兵庫県知事。現在、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。

「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」

自衛隊出動問題も含め、初動のもたつきで多くの人命が失われたという悔恨は、村山に重くのしかかった。後に著書『村山富市が語る「天命」の561日』で、「『危機管理の体制に欠けていた』と、いかように責任を追及されても、弁明できない。お詫びをして反省する以外にない」と書いている。

だが、現在の菅と比べて、危機に直面したリーダーの姿勢という点で、阪神大震災の村山を称賛する声がいまにわかに高まっているという。

首相官邸で官僚機構を統括する立場にあった石原がこんな点を強調した。

「最高指導者には自分で全部、仕切る人もいるが、村山さんは閣僚経験もなく、就任まで野党の党首だったから、各責任者に権限を与え、フルにやらせて、どんな結果でも自分が全部かぶるという姿勢を示した。これは正しかったと思う。罷り間違えば政治生命を失うわけです。それを全然、意に介しなかった。そういう覚悟だった」

一方、16年後の菅は3月11日、参議院決算委員会での審議中に大地震に遭遇した。4分後、首相官邸に官邸対策室を置き、20数分後に宮城県の村井嘉浩知事から自衛隊派遣要請が届くと、北沢俊美防衛相に「最大限の活用を」と指示する。大地震の30分後に緊急災害対策本部を設置した。

早朝の阪神大震災と違って、昼間の出来事だ。加えて阪神大震災の頃の制度の不備や不手際、失敗体験の教訓が生かされ、初体験の原発事故を除けば、初動の対応は比較的迅速だった。(文中敬称略)

(的野弘路、小倉和徳、熊谷武二、岡本 凛=撮影 PANA=写真)