トヨタ紡織監督の言葉で再び歯車が動き出した

箱根駅伝に続き、全日本大学駅伝も制した東海大に、故障が続いていた元・世代トップがレギュラーに食い込む余地はなかった。そのことを本人も理解していたという。一方で、「もしかしたら環境が変われば、うまくいくことがあるんじゃないか」というプライドのカケラがわずかながら残っていた。

大学3年の冬、羽生は10000mレースに出場した。珍しく練習がある程度積めていた時期だった。ニューイヤー駅伝や箱根駅伝のメンバーたちが出場しないようなレースだったとはいえ、29分18秒76で3着に入った。羽生をスカウトするつもりで現地に足を運んでいたトヨタ紡織・白栁心哉監督に羽生は声をかけられる。

「羽生はまた世代トップで走れるようになる。トヨタ紡織のユニフォームを着て、日本のトップを走っているイメージはできているよ」

まさかの白栁監督の言葉に、苦悩していた羽生はときめきを感じた。実業団のトヨタ紡織から勧誘を受けたことで“新たな競技人生”が動き出した。

「羽生はもう無理だろう、大学で終わるな、と思われていたはずですけど、僕自身はなんとか実業団で続けたいという思いがありました。正直、大学で結果を残せるような状況ではなかったので、4年時は故障を完治させて、メンタル面も立て直して、できるだけフレッシュな状態で実業団に行けるような準備をしたんです」

結局、箱根駅伝を一度も走ることができなかった羽生は大学卒業後、トヨタ紡織に入社。かつてのプライドを捨てて、ゼロからやり直す決意をした。

東海大時代、羽生は両角監督から「こだわりが強い選手」と表現されていた。自分のやり方に固執するワガママなところがある、そんなネガティブなニュアンスが含まれていた。

本人も「間違いなくそうですね。今思うと、大学時代の僕は本当にひどかったと思います。でも実業団でめちゃくちゃ変わりましたよ」と話す。絶頂から最底辺にまで落ちぶれたにもかかわらず白栁監督に“拾われた男”は、その恩に報いようとの思いひとつで改心したのだ。

「自分の感覚みたいなものはすべて捨てました。監督、スタッフとともに1週間単位で練習メニューを組み立てて、どんなメンタルでもとにかくメニューをこなすことを大切にしてきたんです。そのため練習の質はかなり下げました。明日から頑張ろうじゃなくて、今日頑張る。与えられたメニューを100%やりきる。それを毎日続けたんです」

感情をコントロールして、日々のトレーニングに真摯しんしに取り組む。羽生が最も苦手にしてきた行為だが、その小さな積み重ねが、どんどんと大きな成果になっていく。