しかしながら、そんなことを野放図にやらせているからこそ、医療費がうなぎ上りに膨れ上がってくるのである。先ほど述べたように医療費を国庫で賄っている国の多くは、病気を定義したうえで、入り口で相当にスクリーニングすることで、本当に必要な人だけが病院にアクセスできる仕組みにしている。たとえばテニスのやりすぎで肘が痛くなる「テニスエルボー」も、アメリカなどの国では「病気やけが」とは認められないから公的保険の対象外だ。もちろんそれでも痛ければ病院で診てもらえるのだが、医療費は自腹を切るか、プライベートな保険でカバーするしかない。
たとえば、救急車の利用状況についても日本と海外では大きく違う。日本では救急車をタクシー代わりに使う不心得者が大勢いて、各市町村にとって救急車の出動が重たい財政負担になっている。救急車が一度出動すれば少なくとも2人の人員が必要となり、さらに頻繁な出動は、交通渋滞の原因にもなっている。
2011年末、橋下徹大阪市長が「救急車の利用を有料化する」と言い出していたが、今や有料化は世界の趨勢で、有料ではない国は日本、イタリア、イギリスくらいしか見つからない。たとえばアメリカでは都市によって値段が違うが、相場は2万円から4万円くらいである。ドイツやフランスも2万円以上で、オーストラリアは1万円程度で走行距離による従量制の国もある。有料化すればタクシー代わりに使う119番通報は激減し、使用頻度は10分の1になるだろう。当然、公的負担は軽減する。
では本当に重い病気の場合はどうするか。有料制のいくつかの国では担ぎ込まれたときに「これは救急車で運ばれるべき病気やけがだった」と判定されれば、料金が請求されない仕組みになっている。だから迷ったときには救急車を使う、という判断ができる。日本も早く救急車の利用を有料化して、同じような制度に持っていくべきだろう。
日本では、「病気を定義せよ」「救急車を有料化せよ」などというと、決まって「弱い者イジメだ」という批判が出てくる。何をもって「病気」とするのか、どういう場合に救急車を呼ぶべきなのか、という線引きに関しては慎重な議論が必要だろう。しかしながら、あらかじめ病気の基準を前さばきする仕組みをつくっておかなければ、いずれ国庫が破綻するのは目に見えている。
国民の考え方も大きく変わらなければならない。市販の薬を買うより安いからという理由ですぐに病院に駆け込んだり、薬を処方しない医者をヤブ呼ばわりしているようでは、医療費をはじめとした“社会コスト”は抑制できない。病院でもらった薬や湿布を使い切らず、大量に余している家庭がどれだけあることか。
日本は世界のどの国と比べても入院する人の数が相対的に多く、入院期間も長い。アメリカなら盲腸は日帰り手術が多く、入院しても一泊程度。出産にしても帝王切開は別にして、自然分娩なら1日、2日で退院が普通だ。
病院にとって外来は、マーケティング部門のようなもので、稼ぎの元は入院患者である。だからベッド数の多い病院は外来を数多く取って、そのうちの何%を入院させるかで利益が出るかどうかが決まってくる。
さらに言えば、患者の側も「万が一」に備えて入院したがるので悪循環となる。結局、診る側、診られる側、双方が「入院」に依存しているのが日本の医療で、そこが世界の常識と大きくかけ離れている。