介護離職と起業

2017年6月ごろ。母親は2度目の大腿骨骨折後、老健で3カ月療養。その後、大木さんのマンションでの在宅介護に戻る。

しかしその後も母親は転倒を繰り返し、時に救急車を要請することも。体調が優れない日も多くなり、補聴器営業の仕事を突然休まなくてはならないことが増えたが、上司や同僚たちは、そういった状況を理解してくれなかった。

医師が画像から診断している
写真=iStock.com/sudok1
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「入社5日目で母が脳梗塞になり、そのような状況でも4年近く雇用してくれたことは、大変ありがたいことでした。ただ、納品でお伺いしなくてはならないお客様がある日に、どうしても母に付き添わなければならない状況になり、それを上司に相談したところ、『自分で対応するように』と言われました」

大木さんは辞職を決意。母親の介護をしていることを承知の上で採用してくれた補聴器の個人店に転職。ところが約半年で、「サポートするから起業したほうがいい」「補聴器店を始めるために、必要な機材を100万円で譲るから退職してはどうか」と社長から勧められ、100万円支払って契約書を交わし、退職した。

独立してから大木さんは、勤めていた頃より気持ち的には楽になっていたが、経済的には厳しいため、自分の補聴器店の仕事の他に、2つのアルバイトを掛け持ち。無理がたたってぎっくり腰になった。

人を笑わせることが好きな母親は、言葉は出にくいものの、目をくりくりさせたりし、表情豊かに思いを伝えてくれた。大木さんは母親を「たまちゃん」と呼び、いつも「かわいいね」と声をかけ、頻繁に母親に抱きつくようにしてじゃれ、コミュニケーションをとった。

「幼少期の寂しかった記憶や疎遠だった関係を、母と2人で埋めていたように思います。お互いが険悪だった頃のことも忘れるほど良い時間でした」

介護が始まったばかりの頃、小学生の時からの大木さんを知っている近所のおばさんに会った。おばさんは、「お母さんが、『娘とは合わないのよ』と言っていたけど、一人で介護なんて大丈夫? おばさん心配だわ」と大木さんに言った。

「本当に私は母に嫌われていたんだなぁと思い、気持ちがなえましたが、近所のおばさんは私が子どもの頃から知っているからこそ、心から心配しての言葉でした」

一方、母親は訪問看護師やデイサービスの職員に、「娘のおかげで幸せ」と口にしていたようだ。

「介護を受ける親にも反抗期みたいなものがあって、本当に観念するまで、介護する家族は大変だと思います。お互いが現実を受け入れるまで、時間がかかりました。母は2回めの大腿骨骨折後、『もう、こうなったら従うしかないわね』とポツリとこぼし、ようやく私のトイレ介助を受け入れてくれるようになりました」

2017年11月に入り、母親の病状は悪化の一途をたどった。この頃から大木さんは、1対1で介護する怖さを感じるようになっていた。

「この頃、もしも母があまりにも苦しそうにしたら、私が殺してしまうのではないかと思ったりもしました。『愛している人だからこそ、楽にしてあげたいから、殺してしまう』ということが、世の中には起こりうる。ふとそんなことを理解できてしまうような時期でした」

夜は、褥瘡じょくそうができないように1〜2時間、母親のベッドで腕枕をしながら添い寝した。