チコちゃんが説明と理解の決定権を独占している
話題を元に戻そう。「チコちゃんに叱られる!」は、実証性の甘さ、説明の単純化、「諸説あり」という逃げ方などに対する批判的な指摘があった。本記事が注目したいのは、そのような表層的な「科学の知の正確さ」をめぐる点だけではない。「なぜ」という問いを連発し、すべての事象を特定の説明の地平に還元することを要求し、それ以外をすべて誤答とする「説明と理解の決定権の独占の姿勢」こそを問うている。
そこに見る知的傲慢さは、かつてのヨーロッパが世界を解説する権限をわが手に独占しようとしていた、植民地主義的で暴力的な知のスタイルの再来のごとくである。
チコちゃんによって否定されていたのは、「回答者における知識・情報の不足」のみではない。回答者側がそなえているであろう複数の説明の地平、思考様式、世界観それら自体が否定されていた。私たちは、想定されうる思考様式の複数性を否認されることに対して、強い虚しさと不愉快さを覚えるのである。
「ボーっと問うてんじゃねーよ!」と言いたい
「なんで?」と執拗に問い、自身の思考様式に合わない他者を「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と罵倒することは、自分が求める説明の地平に服従することを相手に求め、自らの知的優位性と権力を誇示することである。さらに、その傲慢な姿に自ら気付いていないということでもある。このような状況に対しては、むしろ「ボーっと問うてんじゃねーよ!」と、その自画像を質問者側に適切に示してやるのが最善であろうと考えられる。
こうした批判的対話を経て、チコちゃんは、何人たりとも否認することのできない他者の尊厳と思考様式の存在に、はたと気付くかもしれない。そして、自分が依拠していると信じている説明の地平が、その実、普遍的でも何でもなく、数ある世界認識のスタイルのひとつに過ぎないという謙虚な自意識をもつことができるかもしれない。その自覚に至ってこそ、初めて、対等な認識と理解への展望がもたらされることであろう。
20世紀の文化人類学の理論的転換と、「なぜ」という問いを強いることの暴力性をめぐる省察から、現在の教養番組、ひいては私たちの身近な事象への説明と理解の姿勢が学ぶべきことは多いに違いない。
参考文献
NHK「チコちゃんに叱られる!」ウェブサイト(2022年10月12日、11月10日閲覧)
亀井伸孝. 2009. 『手話の世界を訪ねよう』東京:岩波書店
長谷川眞理子. 2002. 『生き物をめぐる4つの「なぜ」』東京:集英社
マーティン, P. & P. ベイトソン. 1990=1990. 『行動研究入門 動物行動の観察から解析まで』東京:東海大学出版会
レヴィ=ストロース, クロード. 1962=2000. 『今日のトーテミスム』東京:みすず書房