「なぜ」という異質な疑問詞
そもそも、「なぜ」という問いに、「○○だから」というふうに、唯一の回答で解を与えることができるのかという根本的な問題がある。
「なぜ宇宙は存在するのか」「なぜ人は生き、死ぬのか」「なぜ私たちはものを考えるのか」「なぜ『私』が存在するのか」。これらの問いに対しては、おそらく無数の回答を与えることができるであろう。哲学、倫理学、物理学、生物学、宗教、神話などが多くの回答を与え、説明してきた問いである。
一般に「5W1H」と総称される疑問詞のうち、「なぜ」だけは扱いの難しい「異質な問い」である。5W1Hは、「いつ」「どこで」「だれが」「何を」「なぜ」「どのように」の六つから成り立っている。
たとえば「いつ」について見てみると、それには「時間」で回答するというふうに、説明の地平が特定される。「年」や「秒」で回答するなど、答え方の単位や桁に多少の幅があるとは言え、着地点は常に「時間」である。「どこで」に対しては場所で、「だれが」に対しては人で回答するというふうに、その説明の地平はひとつに特定される。
しかし、「なぜ」が問おうとする原因・理由については、説明の地平が数多くあって、必ずしも特定することができない。「なぜ」に対する説明の地平をどこに置くかを事前に双方で取り決めておかないと、問い自体が成り立たないという特徴がある。
「なぜ」の問いは科学の原動力になった
むろん、世界の事象について「なぜ」を問うことは重要な営みであり、それが科学の原動力となった側面がある。「なぜ星が動いて見えるのか」という問いに対し、「地面に対して星が動くから」という天動説が唱えられていたが、やがて多くの観察を重ねることにより、「星に対して地球が自転しているから」と説明する地動説が生まれた。
「なぜ世界にはかくも多くの種の生物がいるのか」に対しては、「神が創造したから」という創造説が唱えられていたが、やがて「長い時間をかけて多様な環境に適応してきたから」と説明する進化論に置き換えられていった。
ある事象が成立する背景に関心をもち、さまざまな他の要素との間の因果関係で説明、納得しようとすることは、近代科学成立以前からも、人間社会において広く行われてきた。かつては神話や伝承の中で多くのことが説明、納得されてきたし、近代科学が成立してからは、物理学や生物学における特定の法則に引き付けて説明、納得する流儀が定着した。
「なぜ」という問いが通用する時、しない時
神話・伝承から科学へという説明の仕方の移行には、メリットとデメリットの両面がある。メリットとしては、少数の法則で多くの事象の原因を説明することで、一定の成果を上げたことである。その成果を、私たちは世界認識の方法のみならず、日常生活の利便性においても享受している。