レヴィ=ストロースは、トーテミズムの研究を通じて、先住民には先住民なりの思考様式があること、それはヨーロッパ人のそれよりも劣ったものではないこと、ヨーロッパ人によって機能的に説明されるのをただ待っている受動的な存在ではないことなどを見出した。
こうして、新たに登場した構造主義人類学は、徹底して先住民の思考様式を擁護し、機能主義人類学に代表されるヨーロッパの自分勝手な理解のスタイルを批判したのである。
はたして、ヨーロッパ人は、自分たちの好みのスタイルで他者を説明し、知的に満足していてよいのだろうか。それは、一種の植民地主義的なまなざしではないのか。ヨーロッパ側の知的傲慢さは、こうして批判や省察の対象となっていった。
それは、人文・社会科学において、「なぜ」という問いかけに対し唯一解を与えられるはずだという機械論的な前提が覆され、「複数の説明の地平における、複数の回答を見出していく」視点へと開かれていった転機のひとつであったとも言える。
手話を学ぶ人がやりがちな過ち
こうした問題は、決して遠くに存在する異文化の世界の話にとどまらない。私たちの身近な事象の中に、同種の問題を見ることができる。
耳が聞こえる人たちが手話の学習をする時に犯しやすい過ちとして、手話の語の語源となった動作を執拗に尋ねたり、ろう者の慣習や行動、価値観がなぜ存在するのか、その理由や意味をしつこく当事者に問いただしたりするということがある(亀井、2009)。
手話やろう者の文化について、したり顔で「それは○○だからですよ」などと機能主義的に解説する手話学習経験者などもいる。「なぜ」「なぜ」「なぜ」……。聞こえる人たちからの執拗な問いかけが、ろう者たちの日常にストレスをもたらしている(マイクロ・アグレッション)。
ろう者たちは、手話という言語、音を用いない行動・生活様式の体系をもって生活している(ろう文化)。多数派である耳の聞こえる人たちが、その文化の細部について「なぜか」と問いただし、自分たちに理解できる説明の仕方を要求し、納得できる解説がなければ文化の存在や価値を承認しないと圧迫する状況には、「多数派が説明と納得の権限を独占する」、すなわち「少数派に対して知的な支配をする」姿勢がありありと現れている。
ろう者を質問攻めにする聞こえる人は、真面目に手話とろう文化を学ぼうとする人であることも多く、本人には何ら悪意がないこともしばしばである。しかし、自分が設定した説明の地平を、そうと気付かないままに相手に押し付け、さらにはそのように知的な権力を振るっているという自画像にも気付いていないことが多い。
これは、現代における一種の植民地主義的な認識の現れであるとも言える。かつて機能主義を信奉し、手前勝手な説明の地平を要求していた「真面目な文化人類学者」が犯した過ちと同様の現象を、今も日常的に見ることができる。