プロ選手をやめ、建設会社で働いた3年半で見えたこと

清野は新潟出身だが、高校は強豪の山梨学院高へ。ただ、3年間、甲子園とは無縁だった。当時、開学3年目の松本大学を経て、卒業後はBCリーグ(甲信越地方2県と関東地方5県、東北地方1県を活動地域とするプロ野球の独立リーグ)の「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」で5年間、プレーした。

引退するときにコーチ、職員になる話もあったがいったん野球と離れた生活をしたくて建設会社の営業職に就いた。野球選手からサラリーマンへ。実際働いてみて、自分には甘い考えがたくさんあったことに気づく。

撮影=清水岳志
   監督の清野友二さん

考えてみれば、引退直後は何がしたいかなど思いをめぐらしたこともなく、はっきり言って野球以外は何のこだわりもなく、何でもよかったのだ。

「最近の選手は『野球を終わった後のことを考えろ』と言われる機会も多いですが、現役で野球をやっている時に考えるのは負けだと思っていたんです。セカンドキャリアを考えてプロをやっているのはおかしいと、頑なな考えがあった」

就職した建設会社は、新潟アルビレックスBCのスポンサー企業でリトル時代の恩師が役員をしていた縁。県内でも優良企業だった。しかし会社のことを何も知らずに面接試験を受けた。

「うちの会社をどう思うと言われて、何も答えられなかったんです。いい会社だと存じてます程度で。大丈夫か、こいつという印象だったと思います。恥ずかしさだけでした」

採用は決まっていて、形だけの面接だった。現役の時、ちょっとでも次の仕事のことを意識してやっていたらなと後悔した。

周りの同世代は5年先に働き出している。そうした存在にも刺激を受け、「社会人としての証を残したい」と、営業で数字を残そうと決めて勉強した。

サラリーマンとして確かな結果を残し、貢献できたと思える充実した自分がいた。そんな時に母校の松本大から誘われた。せめてもの恩返しと退社する直前、入札で仕事を勝ち取ることができた。

同社とは今もいい付き合いは続いていて、松本大学から就職する選手もいる。

3年半のサラリーマン生活は思いのほか刺激的だったが、母校から監督の話が舞い込んだことで、野球の経験を還元しようと、コーチを2年やってから監督に就任して5年目を迎えている。

松本大のように地方の大学はどうやって存続していけばいいか、大きな命題だ。首都圏の有名大学のように知名度があるわけではない。地産地消ではないが、鍵はその土地を大事にすることだ、と清野は考える。信州を、甲信越を大事にすること。

「うちは長野県を中心に隣県の新潟、山梨出身の選手を半分以上、採るようにしています。全国を回ってリクルートをすることはない。強くするならあちこち手を回して選手を集めればいい。でも見に来た人が、みんな県外じゃん、というチームを応援する気になりますかね。大学が地域貢献を謳っている以上、野球部も地元から愛されたい」