社会党は与党時代の極楽に甘んじて転落

戦後日本での二大政党は、1955年に左右社会党が合併した日本社会党と、鳩山一郎首相の民主党と緒方竹虎の自由党が保守合同した自由民主党とで成立し、最初の総選挙(1958年)では、追加公認を含めると共産党の一議席以外は両党で占めた。

社会党は1996年まで自民党に次ぐ第2党で、1993年には細川連立政権に参加し、1995年には村山政権を樹立した。この与党時代に、ベテラン議員たちは大臣や政務次官に就任して、優秀な秘書官や公用車を乗り回す極楽を味わって満足し、1996年に行われた初の小選挙区制の下での総選挙には、リスクを避けて立候補せず引退してしまった。

閣僚は次期選挙に出る人だけにして、彼らを中心に現実路線をとるべきだった。それなら、ドゴール将軍の第五共和制で低迷していたフランス社会党が、ミッテラン大統領の下で育った政治家を擁して、二大政党としての地位を確立したのを再現できた。

ところが、社会党あらため社民党は、以前の社会党に戻りたい人だけの党となり、残りは自民党の不満分子出身が中心の民主党に合流した。

民主党は政権復帰を目指すはずだったが…

その民主党は2009年、政権獲得のために賢明に行動して、小泉ロスで低迷する自民党に美しいマニフェストを掲げて挑戦し、見事に政権を獲得した。しかし、マニフェストは将来像としては良かったが、財源とプロセスが不明だった。たとえば、高速道路の無料化はいいが、有料を前提に計画・建設されてきたのを無料化すれば交通渋滞が増え財源も破綻してしまう。

また、政治主導だといって、官僚を使いこなすのでなく、政治家が官僚の仕事を始めたので実務がまわらなくなった。

それでも、自公と消費税引き上げの三党合意を結んだことで、非現実的な財政論とは手を切って、いつの日か政権に復帰したときに棘となりなかねない宿痾を切除した。そこでじっくりと、数年から10年のちの政権復帰を目指せる党に生まれ変わるべきだった。そして、現実性の高いマニフェストに組み直せばよかったのである。

ところが、2014年からの安保法制論議で、憲法論という旧社会党的な護憲路線に逆戻りしてしまった。安倍政権のやり方には議論はあろうが、国際情勢の変化からして、アメリカなどとの同盟強化は焦眉の急だったのだから、それを踏まえた対応をすべきだったのに、高齢者主体の反戦平和の盛り上がりに乗ってしまった。