どうしても贅沢ができない

自分でそういうことを言い聞かせているものですから、たいへんみっともない話ですが、どうしても贅沢ができないのです。例えば出張をして、自分ひとりで食事をするのに、ホテルで夕食をとろうと思えば最低でも何千円かかります。1万円近くかかる場合もあります。そういうことが、私自身、信じられないのです。脱線しますけれども、私は休みで暇なときに、スーパーマーケットで食料品を買うのがたいへん好きなのです。カートを押しながら家内の尻からついていって、「あれを買え」「これを買え」と言って買ってもらうのです。

家内には「家にあまりいないし食べもしないくせに、あれもこれもと言う」と怒られてしまうのですが、買ってもらっている間、楽しくて楽しくて仕方がありません。そうしてたくさん買ってもらって、たいへん贅沢をしたなと思っても、レジで支払うと1万5000円くらいです。そして、買った食料品がどのくらい保つのかといったら、家内に言わせれば10日は十分に保つという。我々が家で食べている夜のご飯は、おそらく原価では1000円にも満たないものなのでしょうね。なのに、ホテルで食事をすれば簡単に数千円はかかってしまう。ですから感覚が、どうしても貧乏性なのです。

ケチらなくてもいいのに、吉野家の牛丼屋に入って450円の並を取る。大盛りはご飯が多すぎて老人にはムリですから、並を取る。また、お肉だけ出てくる並の皿が380円くらいであるのです。それを私の運転手さんと一緒に食べるのです。自分ひとりで行くのは恥ずかしいものですから、「おまえも食べい」と連れていって、2人で牛丼の並を取って、お肉だけの並の皿もひとつ追加します。上から食べますと最初に具がなくなりますから、追加したお肉だけの皿を運転手さんと半分ずつに分けて、上に載せて食べる。

牛丼
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たったそれだけのものを食べて、ルンルンでリッチな感じになるのです。「今日はたいへんな贅沢をした」という感じになるくらい、みみっちい生活をたまにしています。

例えば毎晩5000円の食事、1万円の食事を10年続けようと、なんでもないはずなのに、それは死んでもできないくらい恐いことなのです。お金がないから恐いのではなくて、お金はあるけれども、そんなことが信じられないわけです。毎晩7000円、8000円のメシを平気で食える神経というのは恐ろしい。できれば、そういうものであってほしいと思うのですが、ちょっと成功された方が、しょっちゅうホテルで豪勢な食事をしておられるという。それを見聞きするたびに「へえ」と思ってしまうのです。

その人も会社をつくった当初、おそらく倹約を旨としておられたのでしょう。しかし成功するに従って、それだけの贅沢をしても構わないという財政的な裏付けが出てきて、贅沢になってしまう。人間というものは、考え方が変化していくのです。