東西冷戦を予告していた

最終戦争は最終的には主義(イデオロギー)の戦いになるとも石原は言っている。これは戦後の東西冷戦を予告した言葉である。上記したような石原の共産主義やヨーロッパの地勢的な問題についての洞察は、冷戦後のソ連の内部崩壊を見通したものであり、ごく最近のEU問題とも一脈通じるものがある。

興味深いのは、石原の戦略構想が極めて長期の将来を射程に入れたグランド・デザインだったということだ。「最終戦争論」の演説をぶっていた1940年当時、石原は決戦戦争を1970年ごろではないかと予測していた。世界平和をもたらすための決戦戦争の条件は、高性能の航空機や、一発で大都市が破壊できるような兵器が出来ることだった。だから、「陸海軍などが存在しているうちは決戦戦争にはならない」「動員だ、輸送だと間ぬるいことではダメ」なのだった。飛行機の性能や破壊兵器の威力が決戦戦争を戦えるレベルに高まるまでに準決勝を勝ち抜き、国家統制によって国力を整えて最終決戦に備えるというのが彼の戦略ストーリーだった。太平洋戦争は石原の戦略からしてまったくの時期尚早である。当然、彼は日米開戦に否定的であった。

日中戦争の不拡大方針を唱える石原は参謀本部で繰り返し東條と衝突するようになる。関東軍に参謀副長として左遷される。そこでも東亜の代表になることを直近の戦略課題としていた石原は、満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考える。ここで東條との確執は決定的になり、自分の戦略構想を理解しようとしない東條を「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」と馬鹿呼ばわりにした。挙句の果てに予備役に編入され、石原の軍人としてのキャリアは潰えた。

(次回につづく)

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