医薬メーカーの中で、一番華やかで注目が集まる部門といえば、「創薬」部門で、各社が、巨額の資金と高度な人材を注ぎ込む。その部門のトップとして、11年10月に、長谷川閑史が三顧の礼で招聘した人物は、米国・英国などで国際的にも高い実績を誇る元ライバル社幹部だった。
その人物は、取締役で研究開発部門を統括する山田忠孝。その肩書は華麗だ。
「ビル&メリンダ・ゲイツ財団グローバル・ヘルス・プログラム総裁」「米国内科学会マスター」「米国消化器学会および内科外科学会会長」、エリザベス女王から与えられた「ナイト」の称号を持つ。
山田は、全米医学部の教科書を執筆するほどの超インテリで、実業の世界では、GSKの立て直しの立役者として世界の医薬品業界では、山田を知らない者はいないほどの“大物”である。
多くの人から「タチ ヤマダ」と親しみを込めて呼ばれる山田は、開口一番、「いつか日本に帰るのが夢でした。今こそ、日本のために働きたいのです」
と話し、一瞬の間を置いてこう続けた。
「特に11年3月11日の東日本大震災、原子力発電所の事故を見て、日本に貢献したいという思いが強くなりました」
山田は、15歳のときに渡米し、50年以上海外で実績を積んできたため、日常語は“英語”である。
「私がGSKを辞めた06年のタケダは、今とは全く別の会社でした。それが、ミレニアム、ナイコメッドの買収によって大きく変わり、欧米の医薬品メーカーが、タケダをグローバルな競争相手だと認識するようになったのです」(山田)
真のグローバル企業に変貌しようとするタケダは、国際的なキャリアを誇る山田とも重なってみえる。世界の名だたる医薬品メーカーが招聘に動いたとされる山田に対して、長谷川は、
「是非、助けてほしい。研究開発組織を成功に導いてほしい」
と説得した。これに対して山田は、
「長谷川さんは、議論を尽くし、リスクを取ることを恐れない。新しいステップを踏むためのリスクをいとわない人だ」
と、長谷川の申し出を快く引き受けた。自身の最後のキャリアの場を、日本のタケダに決めた山田と、タケダのグローバル化に本気で挑戦する長谷川には、「日本、タケダを何とかしたい」という共通の思いがあったはずだ。そしてその思いを実行に移すために、山田はタケダを選んだ。