長い出世レースの間、企業から「査定」され続ける
日本の雇用の独特さは、こうした校内マラソン大会に似た、「未経験からスタートする、広くて長い出世レース」にあります。
仕事を限定せずに雇い、会社都合の異動で広い範囲で仕事内容を変えながら、10年、15年といった長い期間を経て課長や部長になることを目指していきます。正社員であれば多くの人が幹部候補としての出世機会を得られ、モチベーションを長く保てる仕組みですが、組織内の自身の仕事内容を決めるイニシアチブは会社に握られ続けます。
日本企業はすでに「年功賃金」ではありません。「査定付き職能給」という形をとり、賃金は「結果的に」年功的になっています。このことの意味は、キャリアの歩み方をこの校内マラソンとして見たときにより鮮明になります。
日本の正規雇用労働者は、「同期」という同年代の横並びの幹部候補生が集まって、「査定」という形で企業から評価の良し悪しをずっと比較され続けます。
若いうちは同年代の昇進昇格はあまり差をつけないように進んでいきます。同期入社つまり、校内マラソンを固まって走る「仲良しグループ」の中では、一人が飛び抜けて速いわけでもなければ、誰かが飛び抜けて遅いわけでもない、ダンゴ状態で長く走っていきます(こうした比較基準となる集団を、専門的には準拠集団といいます)。それによって、同期同士の少しの昇進の差を、当人にとって大きく実感させる、競争的な状況を作り出します。
例えば、中高年ビジネスパーソンの中には、同期とわずか500円の月給の差がついていたことを知り、とてもショックを受けたという人がいました。若いころは盛んに行われていた同期会も、徐々に人数が減っていきます。同期という集団は、未経験入社から苦楽をともにする「仲間」であるとともに、「競争相手」です。このことは、画一的な卒業年次・新卒一括採用(正確には一括入社)、先程述べた「仕事」に紐付かない職能資格制度という日本独特の制度の組み合わせだからこそ成り立つものです。
強制参加のレースで「降りる」のは個人の意思
こうした「平等主義・競争主義」が支配する内部昇進レースは、「校内マラソン」と同様に「オプトアウト方式」、つまり原則的には強制参加です。
介護、育児、病気などの「特別な事情がない限り」参加するのが当たり前だと思われています。「自分は出世なんてどうでもいい」と言いつつも、走り始めると、多くの若手がこうした構造に飲まれていきます。平等主義的な面を持っているがゆえに、そこから「降りる」ということは、本人の「意思」や個別の「選択」として理解されます。このことは、女性活躍が女性の「意欲」の問題になってしまうことの理由でもあります。