何をどうセールスしていくのか方針が定まらない中、河合はひとまず「練習」を始めた。公立私立の別なく学校を回り、先生と話をする。サピックスと名乗れば具体的な商談でなくともアポはとれた。現場に飛び込み、現場から知識を得る。転職を繰り返してきた河合は、いつもそうやって営業の勘を養ってきた。
その結果「公立中学にうちの授業を売ろう」と発想したのは昨年の夏のことだ。さっそく都内各地の教育委員会に問い合わせ、許可の得られた99の公立中学にDMを発送した。内容は、ごく一般的な補習や土曜講座の提案である。それに速攻反応したのが和田中だったのだ。
和田中では、東京都初の民間人校長の藤原和博が、補習を目的としたドテラ(土曜寺子屋)や英検準2級取得を目指す英語講座など、公立中学の現実に即した改革を実施してきた。そして任期最終年である5年目の昨年、最後の大仕事として「民間塾との提携」を目論んでいた。
河合からのDMは絶好のタイミングで舞い込んだ。藤原は当時の心境を「飛んで火に入るサピックス」と著書に記している。
河合に対し藤原は「『吹きこぼれ』を対象にした授業をお願いしたい」と切り出した。公立中学は成績順のクラス編成ができないため、授業は「平均よりやや低め」の学力を基準にせざるをえない。その結果、「落ちこぼれ」とは逆に、学力を持て余す「吹きこぼれ」が出てしまう。藤原は「成績上位者に向けた受験対策」を目的に掲げたうえで、「平日を中心に週3~4回」「部活後に参加できるよう開始時間は19時から」「場所を提供する分、費用は格安に」といった条件をあげた。
藤原の逆提案は、河合の想定よりずっと学校の仕組みに入り込んだ内容だった。しかも、受講対象者は成績優秀者限定となると、サピックスのブランドイメージともマッチする。費用面はさておき、トライする価値のある提携内容だった。
社内では「利益を追求できない公立中学でやることに意味があるのか」と批判的な声もあった。だが河合は学校を訪ね歩くうちに、どんな学校にも共通する問題に気づいていた。
それは教師の多忙さだった。共働き家庭、ひとり親家庭が増えるといった家庭環境。地域の崩壊。モンスターペアレンツという言葉に代表されるような親の変質等々。子どもを取り巻く環境の変化は予想以上だった。そのしわ寄せとして、教師の仕事の多くを生活指導が占めるようになっていた。今、教師が教えることに集中できない状況にあるとすれば、学校の仕組みも変わるべき時期にさしかかっている。そして日々成長する子どもたちは、大人たちの結論を待ってはくれない。河合はこう確信を持った。
「塾は生徒の生活全般を含めた指導はできないが、教科を教えることにかけてはプロ。学校の教師の仕事の一部を民間の塾がサポートする時代は、今うちがやらなくても必ず来る」
たとえ儲からないとしても、どこの塾もまだ手をつけていない領域だ。テストケースとして他社に先駆けるだけの価値はある。河合はそう考え、上層部の説得にかかった。