彼が繰り返すナラティブ(narrative)とは日本語でなじみのない言葉だが、「語り」や「言説」などの意味がある。ここでの文脈においては、人々の感情や認識に訴えかけるような拡散しやすい情報と捉えると理解しやすいだろう。その内容は事実に基づいているとは限らず、時として「作り出される」ものである。

英国を拠点に、中東やウクライナの紛争取材を続けるジャーナリスト、デイヴィッド・パトリカラコス氏は、著書『140字の戦争 SNSが戦場を変えた』(早川書房)の中で、現代の戦争には「戦車や大砲を使って戦う物理的な戦争」と「おもにソーシャルメディアを使って戦う情報戦」の二つがあると指摘。その上で、「重要なのは、強力な兵器を有する者よりも、言葉やナラティブによる戦争を制する者が誰かなのだ」と書いた。

ヒギンズさんは言う。「現地からもたらされた多くの画像や動画が検証され、オンラインのネットワークを通して世界中に拡散しています。ロシアがこの戦争にからむナラティブをコントロールすることは不可能です」

ロシア有利が覆った事情

ロシアは2014年にウクライナ南部クリミア半島を一方的に編入した際、侵攻を正当化する手段として偽情報工作を使った。欧米の政府機関は情報の真偽を精査するのに時間がかかり、結果としてロシアのペースで事態が進んだ経緯がある。

インテリジェンス研究が専門の小谷賢・日本大教授は、「今回はロシアが偽情報を流してもあっという間にネット上で検証されています。民間のオシント能力のレベルが格段に向上したことにより、欧米の政府機関は偽情報の精査に多くの時間を割く必要がなくなっている」とみる。

小谷さんが象徴的な例として挙げるのは、ロシア軍によるウクライナ侵攻直前の出来事だ。ロシア国防省は2月15日、ウクライナ国境周辺に配備した部隊の一部を撤収させていると発表したが、SNS上のオシント・コミュニティーではマクサーなど商用の衛星画像の分析からこれを偽情報であるとする指摘が相次ぎ、米政府高官も「軍の増強は続いている」と即座に撤収を否定した。

「このような重要局面で、民間と国の機関が足並みをそろえたのは画期的でした。SNSの普及は戦争の姿をも変え、これまでは偽情報を流す側が有利になるような例が続いてきました。しかし、今回のウクライナ危機ではそれがひっくり返った。間違った情報は正しい情報に駆逐されることを証明したのです」

戦車
写真=iStock.com/XH4D
※写真はイメージです

日本でロシアのプロパガンダを拡散するのは誰か

ナラティブによる戦争は言語の壁を越える。日本でもロシアの侵攻を正当化するような偽情報が広まった。

「ウクライナには米国主導の生物兵器研究所がある」――。ロシアがウクライナに侵攻する数年前からソーシャルメディアで繰り返し流れ、「ばかげている」「陰謀論」と欧米諸国が明確に否定してきた誤情報だ。