いっそ負け札を出すという手も

とはいえ、「おたくは、どうなの?」なんて言われたら、何か言い返してやらなきゃならない気持ちになるよね。

勝ち札を持っていたら(「うちの娘はオックスフォードに留学して、外交官試験の準備をしてるわ」「うちの娘は、モデルになって、今パリコレ出演中」)、気持ちよく叩きつければいいけど、それができない場合は、いっそ、わが家のひどい負け札をだすのも一興。

「うち? 下の子が二浪して、やっと滑り込んだと思ったら、中退しちゃってフリーター。もう、親子して大笑い」なんてね。

イタリア旅行の話をされて、「いいわねぇ。私なんか隅田川を超えたのは3年前」と暗い顔で返したら、相手も話が弾まない。聞きたくない話を終わりにできるという意味で、負け札は有効なのだ。

ちなみに、うちのおよめちゃんには「ジョーカー」があるらしい。子育てに関する余計なお世話は、すべて「姑が、脳科学的にこれでいいって言ってるから~。あ、姑、脳科学者なんです。黒川伊保子」でやっつけられるからだとか(苦笑)。

母と息子が窓から外を見て
写真=iStock.com/Kaan Sezer
※写真はイメージです

マウンティング沼は、あなたの心の中にある

それにしても、友人知人に起こった「嬉しい話」に、なぜザワつくのだろう。

友だちの子が東大医学部に合格? よかったじゃん。知り合いに優秀なお医者様が増えて、頼もしい限りである。

イタリア旅行で、本格シチリア料理にナポリのお菓子を堪能したあげくイタリア男に言い寄られたなんて話、面白すぎない?

そう考えると、自慢話を、心がザワついて聞いていられないのは、向こうの問題じゃなくて、こちらの問題なのがわかるはず。「それを手に入れたかったのに、手に入らなかった(あるいは先を越された)」という思いが、あなたをさいなむのではないだろうか。

黒川伊保子『女女問題のトリセツ』(SB新書)
黒川伊保子『女女問題のトリセツ』(SB新書)

皮肉だって、余計なお世話だって、無邪気に感謝したり謝ったりしてやればいいだけなのに、なぜか、心がかたくなに抵抗する。真面目で、向上心があって、常に「理想の私」を描いて努力する人は、この沼に落ちやすい。

結局、マウンティングは、片方が「マウンティングされた」と感じたときに成立するものだ。

こっちがイラッとしても、向こうはマウティングの意図がないなんてことは、山ほどある。たとえ、マウンティングのつもりで仕掛けても、こちらが受けて立たなければ、マウンティング不成立。仕掛けた側は、肩透かしを喰らったり、きまりの悪い思いをするだけだ。

つまりね、マウティングの沼は、あなたの心の中にあるということ。

反射的に、誰かと自分を比べて、勝ち負けをはっきりさせようとする本能。生存にまつわる大切な本能なのだが、対人関係では、これを休ませることも知らなくてはね。こういうのを、大人の教養と言うのである。

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