本当に「国葬は当然」だったのか

日本人として唯一ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相も、所得倍増計画を達成した池田勇人元首相も、日米安全保障体制の強化に努めた中曽根康弘元首相も、すべて国葬ではない。

だからといって、国際社会から批判されたこともなければ、「お別れの会」に海外から参列者が来なくて閑散としていたなんてことにはなっていない。つまり、これまでは元首相が国葬でなくても、日本政府的にも、国民的にも、そして外交関係のある海外の国にとっても、なんの不都合はなかったのである。

にもかかわらず、急にここにきて「国葬をやらないなんてありえない!」と言われても多くの日本人は「そうだ、そうだ」とならない。これは安倍元首相の実績を認めるとか、認めないという次元の話ではなく、法的なルールも存在しない中で「なんで、急にそんな話に飛躍するの?」と賛成派のあまりに強引なロジックについていけないのだ。

大問題を「不問」にする政治の不条理さ

そんな感じで多くの国民の頭の中に「?」マークが浮かんでいるところ、さらに追い討ちをかけているのが「2」の旧統一教会問題だ。

ご存知のように今、日本では旧統一教会については、内閣総理大臣が「社会的に問題が指摘される団体」と言及して、自民党も関係を断つと宣言したことで、「反日カルト」という社会的評価が定着している。

自由民主党本社
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そのため自民党に限らず政治の世界では「旧統一協会狩り」が盛況だ。旧統一教会関連団体のイベントに電報を送ったとか、講演をしたという過去があった場合は、「なぜ確認しなかったのだ?」とボロカスに叩く。もし信者が秘書や事務所スタッフにいようものなら、「さっさとクビにして出禁にしろ」と迫る。これが今の日本の「社会正義」である。

そんなムードの中で、岸信介元首相から「安倍三代」で、教団と深いつながりを持っていることが分かっている安倍元首相に関しては、「不問」とされている。参議院選挙で自民党候補者の選挙応援を教団側に依頼した、なんて驚きの証言も飛び出ているのに、「お亡くなりになっているので調査はできません」という。

安倍元首相のファンや自民党支持者からすれば、「それはそれ、これはこれ」という感じで頭の中できれいに分けて考えられるのかもしれないが、安倍元首相に特に思い入れもない一般庶民にはこれは「不条理」以外の何者でもない。

つまり、安倍元首相の国葬は、多くの一般庶民にとって国家の功労者を弔う葬儀ではなく、山上徹也容疑者の安倍元首相殺害によって次々と浮かび上がっている「日本政治の不条理さ」を象徴するイベントになってしまっているのだ。