「無感動な官葬」だった吉田茂元首相の国葬

エリザベス女王の国葬に、イギリス国民だけではなく、他国の人々までが敬意や弔意を示したのは、あれが国教に基づく宗教儀式だからだ。美しい讃美歌や、英国国教会の最高位聖職者であるカンタベリー大主教による説教をしてから参列者や国民が黙祷をしたように、他国の伝統、文化、そして宗教に対するリスペクトが、故人への敬意や弔意にもつながっているのだ。

しかし、残念ながら「安倍国葬」はこうならない。公金を投入する政府事業なので宗教色を排除しなくてはいけないのだ。戦後唯一おこなわれた吉田茂元首相の国葬でも、軍国主義を連想させる神道的な要素はもちろん、吉田氏の信仰するキリスト教、さらには仏教などあらゆる宗教の要素を徹底的に排除した。その結果、機械的に参列者が花を手向け、手を合わせて去っていくだけの「形式的なお別れ会」にしかならず、マスコミから「無感動な官葬」(読売新聞1967年11月3日)などと酷評された。「安倍国葬」も55年前のあやまちを繰り返す可能性が高いのだ。

筆者は、この「宗教色ゼロのお別れ会」というところが、日本の国葬が、多くの国民に支持されない理由のひとつではないかと考えている。

戦前は「国教」に基づく厳かな国葬だった

戦前の伊藤博文首相や山本五十六元帥の国葬が国民的なイベントとして盛り上がったのは、彼らの実績や人気もさることながら、天皇という絶対君主の思し召しによって決められ、大日本帝国の「国教」に基づく宗教儀式だったことが大きい。

1943年(昭和18年)6月5日、山本五十六長官の国葬
1943年(昭和18年)6月5日、山本五十六長官の国葬(写真=読売新聞掲載記事より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

彼らは死んで日本を守る「英霊」になったので、国民も敬意や弔意を示すことが自然にできた。国家神道の熱心な信者ではない人でも、厳かな宗教儀式を通じて、自分が「日本人」であることを実感して、それを誇りに思うような効果があったのだ。

要するに、戦前の国葬には、国民のナショナリズムを刺激して社会の一体感を生む宗教儀式という機能があったのだ。

しかし、戦後日本の国葬にはそのような役割は期待できない。天皇陛下はノータッチで、宗教儀式的な要素はすべて排除されるので、神秘性もなければ伝統も感じられない。故人の巨大な写真が飾られた祭壇らしいものに花を添えて、各自がお別れを告げるだけで、お経もなければ、宗教指導者からの説教もない。完全に「無国籍・無宗教のお別れ会」である。これで国民に日本人でよかったと再認識しろ、というのは無理な注文だろう。