世間を賑わす東京五輪の「汚れた金」
東京五輪の開催から1年以上が経過した今になって、東京五輪の「汚れた金」が世間をにぎわしている。
東京五輪のスポンサーでもあった紳士服大手「AOKIホールディングス」や出版大手「KADOKAWA」の元幹部らから賄賂を受け取ったとして、大会組織委員会(JOC)の元理事らが受託収賄罪で、KADOKAWA会長の角川歴彦容疑者らが贈賄の容疑で逮捕されたのだ。
振り返れば開催当初から、新型コロナウイルスの感染拡大が続いているにもかかわらず強行開催に踏み切った国際オリンピック委員会(IOC)や日本政府などの主催者側に、かつてない批判が向けられていた。国民の健康や命よりもスポーツイベントを優先することへの非難はもちろん、オリンピックの意義をも訝しむ抜本的な批判も相次いだ。
「復興五輪」の欺瞞や「アスリートファースト」の形骸化、スポーツ・ウォッシングなどが明るみに出て、そもそもオリンピックは誰のために、何のために行うものなのかといった本質的な議論が活発化した。
だが、当事者であるはずのスポーツ界から社会状況を鑑みた発言が少なく、とくにアスリート本人からは全くと言っていいほど発信がなされなかった。自分たちの東京五輪が汚されたにもかかわらず、彼、彼女からは何の反応もないのである。
パンデミックという未曽有の事態が引き金となり、東京五輪の汚職事件も相まって、オリンピックのみならずスポーツのあり方をも見直す機運が、今、醸成されている。
日本人アスリートは社会とつながっていない
山積する課題のなかで今回取り上げるのは「アスリートの社会性」である。とりわけ日本人アスリートがいかに社会とつながっていないかを、先の東京五輪は白日の下に晒した。オリンピックに対する意気込みなど競技に関すること、および食事や洋服などの趣味嗜好については積極的に発信するものの、コロナ禍で開催する是非など社会を視野に入れた発言は極端に少なく、ほとんどのアスリートは沈黙を守り続けた。無関心の態度を頑なに貫いたといっていい。