スポーツ界と引退後の社会では求められるものが異なる

人が集まればコミュニティーができる。ひとつ屋根の下に集う家族、近所付き合いとしての地域、児童や生徒、学生同士による学校など、一人では生きられない人間が互いに肩を寄せ合って各コミュニティーは作られる。この小さなコミュニティーが幾重にも折り重なったものが社会だ。大小問わず複数のコミュニティーに属しながら私たちは生活しているが、社会はそれらを束ねる土台である。

各コミュニティー内部の論理と、その外部にあるコミュニティー、およびそれらすべてを包括する社会の論理は、しばしば食い違う。家庭や地域、学校や職場での不文律や慣習がそのまま通用するとは限らない。

たとえばスポーツ界でよしとされる上下関係やそれにともなう従順さは、社会では不自然となる。大舞台でパフォーマンスを発揮するために必要な剝き出しのエゴイズムも、そのままでは無用の長物だ。このコミュニティー内外および社会との相違を、私たちは無意識的に微調整しながら生を営んでいる。この微調整こそが社会性である。

競技だけに集中せよとけしかけられ続けたアスリートは、スポーツコミュニティーの外側に関心を向ける習慣が身に付いていない。そもそも比較対象としての外部が意識の俎上そじょうに上がらないのだから、微調整のしようがない。さらにいえば「今ここ」に意識を向けるように指導されるから、かつての自分を振り返り、未来のありようを思い描くことにも消極的にならざるを得ない。空間も時間も狭められているアスリートに微調整などできるはずもなく、つまりは社会性が身に付くわけがないのである。

スポーツ界の外に目を向けてみることが重要

競争原理が支配する世界で勝利へとけしかけられ、視野狭窄きょうさくに陥ったアスリートの末路は暗い。

競技力という度量衡で人の価値が計られるスポーツコミュニティーとは違い、引退後のアスリートを待ち構える社会には実に多様なものの見方がある。勝者や年長者、あるいは要職に就いているからといって、その人たちがいつも正しいとは限らない。肩書や実績に拠らずにその発言や行動を、つまりその人となりを冷静に見極める目が、ひとりの「社会人」としてよりよく生きるためには必要である。足元にある社会を冷静に俯瞰しなければこの目は育たない。

コミュニティー内での論理をいったん手放し、いったん社会の論理に自分を位置付けてみる。この習慣がないと、序列の優位者や言葉巧みに近寄る人たちの悪意に気づけず、いつまでも利用され続ける。関わる人たちに翻弄され続ける主体性なき人生なんて、誰が送りたいだろう。