政治的な発言を制限するIOCの通達が背景にあるのはわかる。スポンサーや競技団体への配慮、およびそれらから箝口令が敷かれたことも想像に難くない。取り巻く環境がそうさせてくれないというこれらの事情を酌んだとしても、当時はパンデミックという非常事態である。なにがしかのコメントを口にするのが一人の国民として、さらには社会に広く影響を及ぼす者の責務であろう。
スポーツで国民に感動や勇気を与えられるという気概があるのなら、それと同じく社会的な発言も厭わないのが取るべき態度であるはずだ。オリンピックが、スポーツ界を飛び超えて社会的なイシューとして認知されている以上、他ならない当事者として自らの考えを表明しなければならなかった。
「勇気ある発言」をしたアスリートはごく一部
しかしそれができなかった。日本人アスリートには社会的な発言をする者が極めて少なかった。強いて挙げるなら、多くの国民が望まない状況下で開催することに一貫して疑問を投げかけていた陸上の新谷仁美選手が、「選手だけが『やりたい』では、わがまま」だと発言したくらいだろうか。あるいは水泳の松本弥生選手も、「一国民として言うなら、今やるべきではないとも思う」と複雑な胸の内を打ち明けていた。
元アスリートに広げれば、元陸上選手の有森裕子氏がアスリートファーストではなく「社会ファースト」を、元柔道家でJOC理事(当時)の山口香氏は「オープンな議論」を呼びかけ、両者ともに開催ありきではなく本質的な視点から大会のあり方の見直しを訴え続けていた。
これら勇気ある発言は注目に値するが、全体からみればごく一部でしかない。
このままでは札幌五輪も東京五輪の二の舞に
アスリートは試合でパフォーマンスを発揮することがその役割だから、社会的な発言などしなくてよいという風潮がある。だが、私はそれにくみしない。なぜなら社会状況に関心を向け、ここぞというときに発言する姿勢を持たなければ時の権力者に利用されるだけだからだ。
アスリートが社会性を身に付けなければ、健全性やフェアネスといった偽りのイメージでスポーツが塗り固められていつまでも消費され続ける。スポーツの政治利用や商業利用は続き、スポーツ・ウォッシングはなくならない。アスリートがだんまりを決め込んだままでは、札幌市が招致を目指す2030年冬季五輪は先の東京五輪の二の舞を演じることになる。