彼が2代目ではなく、もっと後の代の将軍なら「飾らない人柄」と評価されただろう。政権も社会も安定した時期だったら、むしろ「型破りで面白い将軍様」と大人気になったかもしれない。

だが、頼家は鎌倉幕府ができたばかりで、軌道に乗せていかなくてはならない時期の将軍だ。その将軍に威厳がないのは致命的だ。

頼家は、無理矢理将軍をやめさせられ、瀕死の重病をわずらっている間に妻子を殺され、やがて自分も暗殺されてしまった。

そんな悲惨な人生なのに、知名度が低いとは、さらに悲惨だ。

生前も死後も浮かばれないとは、これほどの悲劇もそうそうないだろう。

ひたすらラブレターを送り続けた冷血漢・北条義時

北条義時(1163-1224)
北条時政の次男。鎌倉幕府2代執権。承久の乱で勝利を収め、武家政権を確立させた。姉に北条政子、息子に北条泰時がいる。

2代執権の北条義時は、数々の陰謀を巡らせて有力御家人達を粛清し、鎌倉幕府の実権を握った人物だ。さらに、朝廷を相手取って戦った承久の乱(1221年)で勝利を収め、武家政権を確立。3人の上皇を島流しにした人物として、戦前の日本では大悪党のように語られていた。

今ではそんな評価は過去のものだが、それでも鎌倉幕府を創るために共に尽力した仲間である有力御家人達を、次々に血祭りに上げていったことは事実なので、どうしても冷血漢の印象はぬぐえない。

実のところ、義時とはどんな人物だったのか。『吾妻鏡』で、義時の人となりをうかがえる逸話を拾い出してみた。まずは、義時が結婚した時の逸話だ。

義時は長男・泰時が生まれた後に最初の妻に先立たれ、それ以来、10年近くシングルファーザーをしていた。しかし、ある時、彼の前に頼朝に仕える女官として、絶世の美女の「姫の前」が現れた。義時はひたすら恋文を書く。だが、姫の前は恋文を読もうともしない。それでも、義時は恋文を送り続けた。その期間、およそ1、2年。粘り強すぎる。

そんな義時を見かねた頼朝が、結婚したら絶対に捨てません、という起請文を義時に書かせて、姫の前に渡した。それを読んだ姫の前は、ようやく義時の家に嫁に来てくれた。シングルファーザーの一途な恋愛による再婚……恋愛ドラマかな?

ヤブサマ射手
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ファッションに気を使い、同僚を思いやる優しさ

それから、頼朝が後白河院と対面するために都へ行った時のこと。

頼朝の護衛としてついて行くメンバーの1人に、義時は選ばれた。この護衛は、都の人々に頼朝の武力を披露する軍事パレードも兼ねていた。憧れの都に出て、人々の注目の的になるのだから、鎌倉武士達にとって一世一代の晴れ舞台であったとも言える。

彼はこの時、一緒に護衛をする同僚の武士に「私は、赤い鎧と青い直垂(着物の一種。鎧の下に着る)を着て行くから、対になる鎧と直垂を着てね」と、コーディネートに悩んでいた同僚に前日のうちに伝えて、相手がコーディネートで悩まないようにしている。双子コーデとは、上級者だな。