源実朝が3代将軍になってから、実朝の怒りを買って謹慎処分を食らった人物が義時の家に押しかけ、泣きついて来たことがある。この時、義時は「和歌が好きな実朝だから、和歌を贈れば機嫌がよくなるよ」と適切なアドバイスをする。

そればかりか、彼を実朝の元へ連れて行き、実朝の怒りが解けるようにした。血の粛清をしまくっているくせに普段は優しいのか。

占いに一喜一憂

承久の乱の際、義時は兵を子の泰時に預けて都に送り、自分は鎌倉に残っていた。

この時、夜に義時の邸宅に雷が落ちた。当時、雷は吉凶を占うものだったので、義時は不吉の予兆かもしれないと怯えた。

そこで、その雷が吉か凶かを知るため、占いにも精通している、鎌倉幕府のブレーンである大江広元を呼び出して相談した。いくら不安だからって、当時74歳の大江を雷雨の晩に呼び出すなよ。結果、落雷は吉を意味するものだと教えてもらい、義時は安心したのであった。もし占いの結果が凶だったら卒倒しているタイプだろ、義時。

以上の逸話を総合すると、義時は恋に一生懸命で、ファッションに気を使っていて、気配り上手で面倒見がいい。しかも、占いに一喜一憂する。ようするに、女子力が高い。

武家政権を確立させたのだから、さぞかし、横柄にふんぞり返って命令ばかりしているだけの男くさい性格かと思いきや、全然違った。

歴史を動かすほどの偉業を達成できる男になるには、女子力を高めよ。

義時の人となりを知ることで、そんな謎めいた教訓が見出されてきた。

チクリ魔、悪役として描かれる梶原景時の意外な一面

梶原景時(?-1200)
相模国(神奈川県)出身。初めは平家方に仕えていたが、のちに源頼朝に仕え、頭角を現す。頼朝の死後に失脚し、再起を図ろうとしたところを謀殺される。

梶原景時と言えば、チクリ魔として知られている。源平合戦の時、源頼朝への報告書の中で源義経を讒言する内容を書いたことは有名だ。

結果、義経が頼朝に討たれる原因を作った人物として、『義経記』が成立した室町時代頃から多くの日本人達に嫌われていた。源平時代を題材にした歌舞伎でも、たいてい悪役として描かれる。

だが『吾妻鏡』からは、景時の別の一面が見えてくる。

平家を滅ぼした後、平家に味方していた捕虜が自由の身になれるように頼朝へ口利きをしているのだ。

例えば、城長茂という越後国(新潟県)の豪族だ。身長7尺(約2.1メートル!)の巨漢で、景時は釈放して幕府の味方に引き入れるよう、頼朝に進言。おかげで城は自由の身となれた。

景時が頼朝へ口利きをした相手は、捕虜だけではない。嵐の晩に寺の橋が流されないように奮闘した武士を見かけた時には、その晩のうちに頼朝へ報告して、馬を与えるように手配している。

義経についての讒言ばかりが目立つ梶原だが、このように彼の口利きによって救われた人々もまた存在していた。