ある時、頼朝は自身の長兄・源義平の未亡人にラブレターを送った。

この人選は色々とアウトだ。しかも、当時すでに頼朝は政子と結婚している。こうした事情から、未亡人の父親は急いで娘を再婚させ、頼朝に取られないようにした。政子に睨まれたくないという政治判断が働いたとはいえ、女性の父親にここまで拒まれるとは……。

血筋・家柄、共によく、富・名声・権力を持っていて、『平家物語』などの諸記録によると物腰が優美だという。ここまで好条件であっても、女性からモテるかどうかは別問題であることを、頼朝は後世の我々に教えてくれる。

鎌倉町の山中にみなの子本子(第一軍の将軍)像
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鎌倉では通用しなかった「都の常識」

どうして頼朝は、モテないのか。

政治的な観点から見れば、北条家を守るために、政子が頼朝をキープしようとしていたからモテない。文化的な観点から見れば、都の一夫多妻を常識とする恋愛原理が、東国では通用しなかったからモテない。

人格的な観点から見れば、頼朝が身勝手さを丸出しにして生きていたからモテない。他にも、色々な観点から頼朝のモテない理由を考えてもいいのだが、だんだん気の毒になってきたので、ここまでにしておく。

ところで、『吾妻鏡』は北条氏びいきの観点で書かれているという。つまり「こんなモテない男である頼朝と結婚して添い遂げた政子は偉大だ!」と主張したいがために、頼朝がモテなかった逸話ばかりを抜粋されて、鎌倉幕府公式歴史記録書に書き残されてしまったとも考えられる。

もしそうだとすれば、頼朝は『吾妻鏡』の作者からすらモテていないと言えようか。

「頼朝の馬鹿息子」と記録された2代将軍・源頼家

源頼家(1182-1204)
源頼朝の嫡男。鎌倉幕府2代将軍。将軍の地位に就いて1年ほどで、北条氏によってその座を追われた末、暗殺された。息子に公暁がいる。

源頼家は頼朝の長男で、鎌倉幕府2代将軍だが、政争に巻きこまれ、母方の実家の北条氏によって無理矢理引退させられた。よって、活躍期間が短く、そのせいか、目立たない。

父親頼朝(大物)、弟実朝(3代将軍、歌人)と、個性的な父と弟の間に挟まれているので、いっそう目立たない。

しかも、北条氏びいきで書かれているという『吾妻鏡』は、頼家を“頼朝の馬鹿息子”として記録していて、実像はさておき、とにかく目立たない。

それでも、『吾妻鏡』をよく読めば、頼家にもけっこうしっかりした個性が見えてくる。

例えば、気取ったところのある頼朝や、文系優等生の実朝と違い、頼家は“アウトドア派”だ。よく若い武士達を連れ、狩りや船遊びなどのアウトドアをエンジョイしている。