武田信玄は生まれた場所が悪かった

言うなれば、生まれてきた場所の違いが大きかったのです。この地政学的な差は決定的でした。信長が生まれた尾張は非常に生産量の高い土地だった。また、信長はその後、南近江を手中に収め、上洛しています。戦国時代の近江もまた豊かな土地で、一国で77万石はあったとされます。南近江だけでも少なくとも20万石くらいの生産高はあったでしょう。さらに上洛した信長は、堺を押さえて、商人たちを通じて鉄砲と火薬を手に入れることに成功しました。

他方、武田信玄はというと、信玄自身は戦国大名のなかでも一、二を争うほどの傑出した人物だったとしても、生まれたところが悪かった。元々の本拠地である甲斐国は海に接しておらず、港がない。港がなければ交易ができないので、最新鋭の武器である鉄砲を手に入れることができないのです。

富士山を背景にした甲府の街並み
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ですから、先述したように信玄が上杉謙信と約10年にわたって戦いを繰り広げたのも、北信濃から越後に入り、日本海に面した豊かな港のある直江津が欲しかったのだろうと思うのです。しかし、とうとう、上杉を退けることはできませんでした。

「三国同盟」を反故にしてまで港を求めた

信玄は上杉を攻めるうえで、もともと相模国の北条氏康うじやす、駿河国の今川義元との間に、婚姻関係に基づく軍事同盟を結んでいました。いわゆる天文23(1554)年に結ばれた有名な「甲相駿こうそうすん三国同盟」のことです。この同盟は今日でいう和平協定のようなもので、武田、北条、今川の三国は互いに攻め合うのはやめようという取り決めをしたのでした。

これにより、隣接する武田や北条に襲われる心配はないということになった今川は西へと向かいます。隣国の遠江、続いて三河を占領し、やがて信長の尾張へと至り、桶狭間の戦いで敗北します。それが可能だったのも、こうした三国同盟があったからこそ、なのです。

北条は西からの攻撃がないため、関東平定を目論見、武田もまた後ろから攻められないことを前提に、信濃国を攻め、上杉の越後へと迫ることができた。もちろん、戦国の世ですから、この同盟はいつ破られるかわかったものではない。それほどリスクのあるものでした。まさにこれは今日の地政学に通じるものと言えるでしょう。

そして、この同盟を反故にしたのが、武田信玄でした。上杉を滅ぼし、直江津を手に入れることが困難だと悟ると、三国同盟を破り、駿河国に侵攻したのです。駿河は現在の静岡県東部、だいたい静岡市のあたりですが、石高はわずか15万石しかありません。無理に同盟を破ってまで奪いにいく価値のある土地とは思えないのですが、やはり信玄はどうしても港が欲しかったのだろうと思います。こうして駿河湾に面した江尻を駿河における拠点として、海上交易の足掛かりを作ったのでした。