※本稿は、本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
経済的に豊かかどうかが合戦の勝敗を分ける
より多くの兵を養える者こそが合戦の勝者となる。一騎当千の英雄豪傑の存在や、知恵を振り絞り奇を衒った戦法・戦術によって戦いに勝利する場合と比べると、それはあまりに地味かもしれません。しかし、これが合戦のリアルなのです。
いわば経済的に豊かかどうか、富国であるかどうかが合戦の勝敗を分けるとすると、そこには地政学的な優越がもともと存在すると言えるでしょう。
たとえば、武田信玄の場合、信濃国を自分のものにするために、約10年の歳月をかけてこれを制圧しました。その後、北信濃の領有をめぐってまた約10年の間に5回にも及ぶ川中島の戦いで上杉謙信と争った。つまり、信濃を完全に掌握するのに20年もの歳月をかけたわけです。
しかし、信濃国の石高はいくらか勘定してみると(戦国時代では本来、石高では計算しないのですが、本書ではわかりやすさを考慮して石高で統一します)、およそ40万石です。もともと信玄が領有していた甲斐国はどうかというと、大体20万石程度でしかない。つまり、武田信玄は20年もかけて合わせて60万石しか手にしていないわけです。
40万石の領地を持つ大名なら、1万人の兵力を動員できる
兵を無理なく編成するならば、詳細は後述いたしますが、だいたい40万石の領地を持つことができる大名ならば1万人の兵力を有することができると考えられます。100石あたりに換算すれば、2.5人ですから四捨五入して、「100石あたりおよそ3人」ということもあります。この「40万石あたりおよそ1万人」という計算式は、小説家の司馬遼太郎先生も用いた算出方法です。
もちろん無理をすればそれ以上の兵力を動員することもできるでしょうけれども、先述したように戦国時代においては一回の合戦に勝てばそれでいいわけではありません。たとえ一回の合戦に勝ったとしても、それで疲弊してしまえば、次の合戦で負けてしまう。一回の負けが滅亡にもつながりかねないのが乱世たる戦国時代です。ですから、無理なく兵を編成すると、「40万石あたりおよそ1万人」「100石あたりおよそ3人」くらいが妥当な数字なのです。
このように考えると、武田信玄が無理せずに兵隊を集めるとすると、約1万5000人になります。第四回の川中島の戦いでは信玄はおよそ2万の兵を動員したと『甲陽軍鑑』は記していますが、これは誇張した数字を記載しているのか、信玄はかなり無理をして本当に2万の兵をかき集めたのかは定かではありません。