文政五年(一八二二)に道中奉行は諸大名に対して通行すべき街道を指定し、東海道通行の大名は百四十六家、中山道は三十家、奥州街道三十七家、日光街道四十一家、甲州街道が三家と振り分けられている。天災などのため、やむを得ず参勤交代の時期や経路を変更する場合も、その都度届け出て幕府の許可を得る定めだった。

大人数の団体旅行であり、幕府としては各街道が混雑しないよう調整したわけである。

半年前から宿泊場所を予約

参勤交代の期日が指定されると、各藩は早速準備に取り掛かる。加賀藩前田家が参勤した時の事例をみてみよう。

前田家は国元の金沢を出立する四十~五十日前から準備に取り掛かっている。最初に決めるのは参勤の責任者だった。前田家では家老の一人を責任者に任命している。

次に、その家老のもとで江戸まで参勤の御供をする藩士たちが選抜される。道中での役割分担も併せて決められた。藩主の警護役を務める藩士はもちろん、道中での多岐にわたる事務を処理する藩士も必要であった。

参勤の御供をする藩士とその役割分担が決まると、次は宿割りだ。宿泊場所を確保しなければならなかったが、後述のような藩主の生活用品類を運ぶ大勢の人足も同道させたため、その宿泊場所も確保している。

宿場によっては、旅籠屋をすべて貸し切っても足りなかったかもしれない。この問題が、準備段階では一番悩ましかっただろう。

東海道を通過する大名の場合、半年前ぐらいから宿泊予定の各宿場の本陣や旅籠屋から請書うけしょを取っている。本陣には藩主、旅籠屋には藩士などが宿泊した。

幕府の指定に従い、過半の大名は東海道を江戸への経路として使った。つまりは、宿泊場所の確保がその分難しい。早めに宿泊所を決めておかないと野営となる可能性も高く、半年前には予約してしまったわけだ。

江戸時代をイメージしたイラスト
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1年以上も前から準備をする藩も

一方、東海道を経由する大名に比べると、加賀藩前田家の準備はかなりゆっくりとしている。

前述のように、約一カ月半前からである。前田家は中山道と北国街道が参勤交代の経路に指定されたが、両街道とも東海道ほど混雑することはなかった。宿泊場所の確保はさほど急がなくても良いだろうという読みが、準備期間の短さに表れている。

もっと早くから準備に取り掛かっている藩もある。

秋田藩佐竹家などは出立の一年近くも前から着手した。文政八年(一八二五)に十代目藩主佐竹義厚よしひろが江戸から国元に帰国した時の事例をみてみよう。

佐竹家が帰国を許可されたのは、この年の一月七日のことである。四月二十九日、義厚一行は江戸を出立。五月十七日に秋田に戻ったが、幕府から帰国許可が下りる半年以上も前に、佐竹家は帰国の具体的準備に取り掛かっている。