※本稿は、安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
「単なる大名行列ではない」参勤交代の舞台裏
プライベートで旅行を楽しんでいた庶民とは違い、江戸の幕臣にせよ各藩の藩士にせよ、主君を持つ武士にはプライベートな旅行は事実上無理だった。隠居の身ならばともかく、家督を継いでいる身で、庶民のように一カ月にも及ぶ長期旅行など、夢のまた夢である。
しかし、公務となれば話は別だった。
参勤交代への御供を命じられた藩士は国元から江戸、あるいは江戸から国元への旅に加わることになる。その日数は江戸からの距離によって、数日から数十日。御供の人数は大名の石高によるが、大半は百人から数百人のレベル。千人を超える事例もみられた。
毎年、これだけの人数の団体が江戸と国元を往復したのだから、当事者の藩にとっては、その準備がとにかく大変だった。
実際の旅でも様々なトラブルが避けられなかったが、街道筋や宿場には莫大な金を落としたため、その経済効果は大きかった。参勤交代に要した費用は藩の年間経費の五~十%にも達したからである。
本稿では、参勤交代という名の「団体旅行」の実態を解き明かしていく。まず、下準備からみていこう。
日程も、経路も自由に選べない
参勤交代の時期や経路は各藩からの申請に基づき、幕府が個々に指定した。諸大名が勝手に決めることはできなかった。
例えば、譜代大名は原則として毎年六月(関東の譜代大名は八月など)、外様大名は毎年四月に参勤すると定められていて、参勤の際には、その都度伺いを立てる必要があった。
そのため、四月参勤組の外様大名は前年十一月、六月参勤組の譜代大名は同年二月に伺いを立てている。
経路を管轄したのは道中奉行である。五街道をはじめとする街道や宿場の取り締まり、あるいは道路や橋梁などの修復も管轄していた。大名の監察を職務とする大目付と、幕府財政を差配する勘定奉行が一人ずつ道中奉行を兼務した。