本当の宗教は迷う力を与えるもの
ナチズムへの傾斜を強めるドイツを離れ、アメリカに移住したドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、1941年に出版された『自由からの逃走』にこう書いている。
思考や感情や意志について、本来の行為がにせの行為に代置されることは、遂には本来の自己がにせの自己に代置されるところまで進んでいく。本来の自己とは、精神的な諸活動の創造者である自己である。にせの自己は、実際には他人から期待されている役割を代表し、自己の名のもとにそれをおこなう代理人にすぎない。たしかに、ある人間は多くの役割を果し、主観的には、各々の役割においてかれは「かれ」であると確信することができるであろう。しかしじっさいには、かれはこれらすべての役割において他人から期待されていると思っているところのものであり、(中略)本来の自己はにせの自己によって、完全におさえられている。
私たちは生きる限り迷い続ける存在だが、迷うことの苦しさから、周囲から期待される「正しさ」という「にせの自己」を作り上げるのかもしれない。
フロムの言う「本来の自己」とは、迷い続ける自己だと私は考える。そしてニセモノの宗教に対して本当の宗教というものがもしあるとしたら、それはどこかに私が迷う余地を残し、迷う力を与えるもの。つまりは代置された「にせの自己」の中から、「本来の自己」を呼び覚ますものであるべきではないだろうか。