どんな行動にも完全な意味が与えられる

こうした経験は私にもある。

私はかつて親鸞会に属することで「人間は最後に死ななければならないのに、なぜ今を一生懸命に生きるのか」という、長年自分を苦しめてきた問いから解放されていた。

なぜなら親鸞会では「絶対の幸福」になることがその答えであり、それが死を超えた人生の目的だと教えられていたからである。答えを与えられるということは、問いを放棄させられるということだ。人生の根源的な意味を求める宗教心は、教団から与えられた「正しさ」によって殺されてしまう。だから親鸞会にいる間はそこに迷いはなく、とても充実していたし、何よりどんな行動にも完全な意味が与えられていた。人生の無意味さに対する不安から解放されるのである。

問いを放棄させられ、「正しさ」によって宗教心が殺される、というのは、私の経験で言うと「会長先生の御心」という言葉でだいたい説明できる。私は当初、「どうしたら自分が本当に救われるか」という思いを持って教団で求道したが、途中でそれが「どうしたら会長先生の御心に叶うことができるか」にすり替わっていることに気づいた。それは救済の道程であり手段のはずだったのだが、教団の中でそれを言われ続けているうちに、いつの間にか教団や会長に服従することが自己目的化してしまうのである。

モノクロのマリオネットを制御するために指に文字列を持つ手の概念図
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指導者の御心に沿うことが行動基準

幹部会員は高森会長に対する忠誠心を競い、「どれだけ会長先生の御心に忠実に従っているか」がすべての行動基準であった。

親鸞会では親鸞聖人のアニメビデオを販売しているのだが、その活動が他のすべてに優先される。厳しい販売目標に現場が疲弊して通常の布教や育成が停滞しても、誰もこの活動が本当に意味があるのかを問うことはなかった。

なぜならアニメを頒布して布教することが目的ではなく、「会長先生の御心」に沿うことが目的だからである。だから高森会長が臨席の祝賀会や新年会では、毎回華々しいアニメ頒布の成果と感謝の言葉だけが発表された。不思議なことだが、「会長先生の法話」で「人間は最後に死ぬのにどうして生きるのか」という根源的な問いに目覚めた人たちが、「会長先生の御心」に忠実に従っている限り、その問いに悩むことはなくなる。

指導者の「正しさ」に依存する教団は、ピンと張り詰めた糸のようなもので、指導者がブレればすべてブレるし、指導者が静止していれば微動だにしない。

これは言うまでもなくカルト的な傾向を持つ教団において顕著な傾向であるが、指導者の言葉から離れて救済の内容を問い直す行為は、長い歴史と多くの先達による学究の蓄積があって初めて可能になるのである。よって歴史が浅く教義研究の蓄積を持たない教団は、カルト的か否かにかかわらず、指導者の言葉に依存する他に術がないのかもしれない。これは信者にとっては楽なことだ。

私にとって本当の救いとは何かという問いはすでに必要ない。ただ「○○先生はこうおっしゃった」と繰り返していればいいのだから。

しかし実のところ私は、こうした絶対的信順による問いや迷いからの解放を、理性の光の届かない深いところで求めていたのかもしれない。小説や映画などでも一人の人間に徹底的に仕え、従っていく姿が美しく描かれるときがある。

私が思い出すのは乃木希典の生涯である。近代日本の黎明期においてひたすら明治天皇に忠誠を誓い、明治天皇の崩御とともに自害して果てた乃木の生涯を、現代においても美しいと感じる人はそれなりにいる。人生を捧げて悔いはないという人物との出遇いを、潜在的に求めている人は少なくないのではなかろうか。この人、この教え、この教団になら生涯を捧げても悔いはないと、親鸞会にいたときの私はそう思っていたし、今思うとその生き様に酔っていたと思う。