「きれいな心のまま」人を殺したのがオウム事件の核心
オウムが地下鉄サリン事件を起こしたとき、少なくない仏教者が「あれは仏教ではない、本来仏教は人殺しの宗教ではない」と言った。イスラム原理主義がテロを起こしたときも、少なくない専門家が「イスラム教は本来平和を愛する宗教であり、彼らのようなものとは違う」と言った。
しかし「自分たちの信じる宗教は本来は『正しい』ものであり、教えのもとに人を殺すような事件が起きるのは、その信仰や解釈が間違っているからである」という教義の無謬性を前提とする思想は、「教えが正しいのだから人を殺してもいい」という信仰と実は表裏一体の関係にある。
死刑囚となった元オウム信者と面会を重ねてきた、オウム真理教家族の会の永岡弘行会長はこう語る。
オウム事件とは、麻原という憎しみの権化に操られた、普通の心優しい若者たちが起こした凶悪犯罪だと言える。「きれいな心のままでも人間は人を殺せる」ということは、誰でも条件さえ揃えばそうなり得るということだ。その意味でオウム事件は、誰にとっても他人ごとではない。(仏教タイムズ『オウム裁判終結 事件の核心 今後の課題』二〇一八・二・八)
あの事件の気味の悪さ。
小さな子供のいる弁護士一家を殺害し、仲間であった信者もリンチして殺し、ボツリヌス菌を培養して散布することを計画し、VXガスとサリンを実際に撒いた彼らを見て、私たちと同じように「正しく生きたい」という意志を持ってやったのだと思うことは、とうてい受け入れ難いだろう。しかし私はこの「きれいな心のままでも人間は人を殺せる」という言葉ほど、オウム事件の本質を捉えたものはないと思う。
普通の人びとがユダヤ人を虐殺した
クリストファー・ブラウニングは『普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊』において、その全員がナチス体制以前の時代に教育を受け、ナチスとは異なる政治的基準や道徳的規範を知っていたはずであり、しかも最もナチ化の低いハンブルクの労働者である「普通の人びと」が、いかにしてユダヤ人の虐殺を実行していったかを、精緻に分析している。
最初のユゼフフの虐殺でも部隊を束ねるトラップ少佐が泣きながら任務の内容を説明した上で、参加したくないものは処罰なしで任務から外すと言うが、ここで任務を拒否したものは五百人の隊員のうち「わずか一ダースほど」に過ぎなかった。
1942年に行われたこの虐殺では、隊員は血まみれになって任務を遂行し、少なくない隊員が心を病んでしまうが、やがて隊員はユダヤ人の移送作業や虐殺に次第に慣れ、手際よく「任務」を遂行するようになる。
600万人が殺されたという一連のホロコーストにおいて、実務的な手続きや計画に関わったドイツの官僚機構において、ためらうものはわずかであり脱落者もほとんどいなかった。
ドイツの一般国民もその状況を知りつつ、その絶滅政策については沈黙していたと言われている。ナチスが行った障害者の安楽死殺人について抗議した住民も、ユダヤ人への処置に対しては沈黙するか無反応だったという(芝健介『ホロコーストナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』)。