※本稿は、瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の現場から』(法蔵館)の一部を再編集したものです。
カルト宗教の心地よさ
思えば人生は迷いと選択の連続で、今まで様々なことに迷い、そのたびにその自分の決断を喜んだり、悔やんだり、苦しんだりしてきた。決断はそれが重いものであればあるほど苦しいものである。そして、自分の決断はすべて自分の人生の中で責任を取らなければならず、代わってくれる人はいない。
ところがカルトに与えられた答えによって「正しさに依存」すると、この決断の責任を自分で取らなくてもよくなるのだ。つまりは重要な選択はその教団の教えや指導者の指示に従えばいい。そうすることによって、仮に自分にとって不都合な結果が生じてもかまわない。
教義や指導者に従った上での結果は、それが一時的に自分や自分の周囲に耐え難い苦痛や不安を与えることになっても、結果としてそれが、自分の霊的な成長に必要な試練なのだとか、あるいは今は苦しいがもっと大きな幸福へ向かう過渡期にあるのだと説明されたら、それを信ずればよいことになる。
それが明らかに非合理な指示であったとしても、自分にはわからない深遠な願いがそこにあるのだと思えばいいのだ。
オウム真理教でもマハームドラーという論理が使われた。これはグルである麻原が俗物のふりをして不条理な指示を出し、弟子が本当に帰依できているかを試すというもので、地下鉄にサリンを撒けという、正気ならとうてい受け入れられない指示であっても「これはマハームドラーだ」と自らに言いきかせて、実行犯はその指示に従った。それによって自分にどんな結果が返ってこようとも、自分の判断を超えた「尊師の判断」によって、それに宗教的な意味づけがされるのである。そうやって「迷って生きていく自由」を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができるのだ。