この「熱海会談」をきっかけに幸之助さんは現場に復帰する。ただし社長ではなく、営業本部長代行だった。「経営の神様」でも、後継問題は円滑に進まず難しいのだ。

「ヤマハ中興の祖」と呼ばれた川上源一氏の社長交代もよく知られている。川上氏は38歳のときに3代目社長の父から経営を引き継ぎ、27年近く社長を務めた。その間にピアノの生産量は世界一となり、オートバイ事業に進出してヤマハ発動機を創業している。77年に65歳で会長に退き、46歳の河島博氏に社長を任せた。このとき川上氏が言った「足元が明るいうちにグッドバイ」は事業継承の名言だと評判になった。

ところが河島氏と経営方針を巡って対立し、80年に河島氏を解任して社長に復帰した。せっかくの名言は実現しなかったわけだ。川上氏は、83年に息子の浩氏が社長になったあとも会長、相談役として経営に参加していた。

名経営者がスパッと辞めたケース

世継ぎがうまくいくのは、名経営者がスパッと辞めたケースで、本田宗一郎氏が代表だろう。

本田氏はホンダ創業25年の73年に、副社長の藤沢武夫氏と一緒に引退した。本田氏が技術部門、藤沢氏が管理部門という二人三脚のまま会社を去り、世襲もなかった。

藤沢氏は後継者の問題を深く考えて、「われわれの経営を踏襲するのは難しい。次の社長を決めたら、2人とも出社しないことにしよう」と話し、嫌がる本田氏を説得したようだ。次の社長は大卒入社の第1号にあたる河島喜好きよし氏に決めた。

本田氏は技術屋だから、技術部隊の本田技術研究所は遊び場のようなものだ。翌日からピタリと出社しないのは、相当に辛かっただろう。ホンダ元副社長の西田通弘みちひろ氏の著書『かいより始めよ』などを読むとよくわかる。朝は、これまでの習慣でとにかく家を出る。気がつくと、会社の方角にクルマを走らせているから、あわてて別の行き先を考える。彼の悶々もんもんとする気持ちは、涙が出そうなほどわかった。会社を訪れるのは年に1回か2回、社内のイベントに参加するだけと徹底していた。

もし藤沢氏と同時に辞めなければ、本田氏も戻ったに違いない。彼が出社すれば、経営陣も技術者も言うことを聞く。技術面でいろいろと口を出し、引き継ぎはうまくいかなかった可能性もある。

一方で、世襲が期待以上の成果を出したケースもある。ワコールを創業した塚本幸一氏は、息子の能交よしかた氏にバトンタッチする前は「大丈夫だろうか」と相当心配していた。しかし87年に能交氏が社長になると、創業者の経営を立派に踏襲して世界的な企業に成長させた。親の期待を超えて世襲がうまくいった例は、堀場製作所の堀場雅夫氏から一代おいて息子の厚氏が継いだケースや村田製作所などいくつかある。

問題が起こりやすいのは天才タイプだ。例えば、イーロン・マスク氏の経営は後継不能だろう。仮に10年、彼と一緒に働いても「明日は何を言い出すだろうか」と予測できない。