他社から優秀な人材をヘッド・ハンティングしても、自分の経営イメージが強いから、そのイメージを踏襲してほしいのだろう。しかし、「後継者は自分とは別人だから、経営スタイルが違って当然」という発想を本来はしなければならない。

1970年代後半、私が30代の頃だが、オムロン創業者の立石一真氏と事業継承についてよく話した。立石氏は70代半ばだったから、「早く後継者を決めて社長を譲りなさい」とたびたびアドバイスした。立石氏は「私は1日に数百枚の稟議書を決裁している。別の人なら5日で1件が精一杯だ。私が社長のほうが効率がいい」という。

そこで、私は妻にクルマの運転をマスターしてもらった経験を話した。私が日立製作所に勤めていた頃、先輩から中古のカローラを10万円で買った。アメリカ人の妻は「道が狭い日本で運転するのは怖い」と運転を嫌がったが、こちらは長距離ドライブの際は途中で代わってほしいから一緒に練習することになった。「どこかにぶつけても、修理代は16万円まで我慢するよ」とあらかじめ上限を示した。すると、彼女は2回ぶつけたけれど、修理代は16万円に収まった。それからは、私が助手席で居眠りできるぐらい上達した。

立石氏にこの経験を話し、「後継者の育成も同じです。はじめに何億円までは失敗しても許すと上限を示してから、横について見守る。そのうち居眠りできるようになりますよ」と説明した。そして立石氏はようやく決意を固め、79年に長男の孝雄さんに社長を引き継いだ。

自ら手を出したり、経営スタイルを押しつけたりするのは禁物だ。後継者育成は、経営者の忍耐力が試される。名経営者ゆえの試練なのだ。

松下幸之助も復帰したが本田宗一郎は潔く引退

歴史に残る名経営者を思い浮かべても、後継者選びがうまくいった例は少ない。

松下幸之助氏も世継ぎには苦労した。幸之助さんは66歳で娘婿の正治氏に社長をバトンタッチして、本人は会長となった。新社長は全国のナショナルチェーンを近代化・合理化するなど販売網の大改革を進めた。ところが当時は不況でもあり、全国に赤字の販売会社や代理店が続出。64年に熱海で開かれた販売会社や代理店との懇談会は、集まった社長たちが幸之助さんに窮状を訴える場となった。「ナショナルチェーンのやり方をずっと守ってきたのに松下電器の犠牲になった」「こんな改革は受け入れられない」というわけだ。