「自制心の無さ」をアリストテレスはどう解釈したか

「アクラシア(akrasia)」とは、古代ギリシア語で「自制心の無さ」や「意志の弱さ」を意味する。古代ギリシアの哲学者アリストテレスの説明に即せば、「ある行為を悪いと知りながらも欲望のために行ってしまう心の傾向」ということになる。

古代ギリシア哲学がこのテーマを扱った背景は、私たち自身が経験しているのと同じもの、つまり「分かる」と「できる」の間にしばしば溝が生じ、それによって問題を抱えることが古代人にもあったからだろう。他の動物と違って理性的で合理的でもあるという人間の想定と、何が自分にとって悪であるかを知りながらそれを回避できない人間の現実は、現代と同じく古代でも、どうにか調停する必要のある問題だったのである。

実際、古代ギリシア哲学、中でもアリストテレスの『ニコマコス倫理学』(第7巻第3章)は、この問題について興味深い議論を展開している。アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』に後続する『政治学』のためにも、「アクラシア」の分析は重要だと考えていたようだ。というのも、第1巻第13章の冒頭ではこう指摘しているからだ。

幸福とは、完全な徳に基づく魂のある種の活動である以上、われわれはつぎに徳について考察しなければならない。……のみならず、真の政治家も、何にもまして徳をめぐって腐心してきたように思われる。なぜなら、真の政治家は、市民たちを善き人にし、法に従うように仕向けることを望んでいるからである。

夕暮れのアクロポリス、アテネ
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ソクラテスは「悪と知りつつ行うことはありえない」と主張するが…

第7巻でも、自制心の無い人は議会も法もあるのにそれを使おうとしないポリスに似ていると述べているから、「アクラシア」はアリストテレスにおいても、単に個人の問題としてだけでなく、「私とあなた」、そして「私たち」の問題でもあったのは間違いない。そこで、本稿の議論を進めるためにも、もう少しだけアリストテレスの議論を覗いておこう。

悪いと知りつつもそれを回避できない愚かしさを、本稿では「分かる」と「できる」の間に溝が生じると表現した。しかし、それは本当だろうか。つまり私たちが悪を為すとき、私たちは本当にそれを悪だと分かっているのだろうか。もし「分かる」が十分ではないなら、「できる」との間に溝はないかもしれない。できないのは、きちんと分かっていないからかもしれない。

言い換えると、十分に分かってさえいれば、悪を避けることができるのではないだろうか。こうした見方は、実は『プロタゴラス』の中にあるソクラテスのものでもある。ソクラテスは「善と知って行わず、悪と知りつつ行うことはありえない」と主張している。このソクラテスの主張は、私たちの経験とは明らかに矛盾する。

しかし、アリストテレスはこの主張(理性主義)を正面から捉えて、「分かる」とは、あるいは「無知」とはどのようなことかを分析することで、アクラシアという難問を解こうとするのだ。