軍事パレードで示された「信長の常備軍」の力量
ここで注目したいのが、天正九年におこなわれた信長の軍事パレード「馬揃」である。
京都(二月と三月)と安土(八月)で合計三回もおこなっており、二月のそれには例外もあるが(たとえば鳥取城攻撃を控えた羽柴秀吉・秀長兄弟は除く)、基本的に全領規模で家臣団が信長からの動員を受け、それに従っている。
初回の京都馬揃は、天正九年二月二十八日におこなわれた。『信長公記』によれば、次表のように織田全軍が編成されており、明らかに信長を中心とする新たな大規模で華麗な陣立を、広く天下に示すものであったことがうかがわれる。なお、何騎としか書かれていない大名クラスの武将にも、当然のことながら相当数の家臣団が伴われていたであろう。
ちょうどこの時期には、織田家の全領規模で検地を通じて大名・国人領主の石高で表示された知行高と知行地が決定されつつあり、それに応じた軍役が決定され、動員されたとみられる。
正親町天皇臨席の一大イベントとして全領規模で大名以下の諸領主に馬揃を強制することによって、石高にもとづく軍役を果たす近世軍隊への変化を促進したのである。中世においては、戦争の際にしか軍隊は成立しなかった。
この馬揃においては、戦時でないにもかかわらず、天下人の命令で軍隊が機能したのであり、画期的なことだった。突如、信長の常備軍の中核部隊が洛中に姿を現したのである。
鉄炮、イエズス会、そして石高制…戦国の最強軍団を生んだ三大要素
あわせて重要なのは、日本を訪問していたイエズス会巡察使(イエズス会の最高位聖職者)ヴァリニャーノを招待していたことである。
信長は、ヴァリニャーノから贈られた濃紺色のビロードに金の装飾を施した椅子に腰掛けて閲兵した。諸国から二十万人近い群衆が集まったと言われる絢爛豪華な軍事パレードを、ヨーロッパへの帰途に就く直前の巡察使に見せておきたかったのだろう。
信長の関心は、国内的には大規模な常備軍の威容を天皇以下に広く示し、国外的にはヴァリニャーノを介してローマ教皇グレゴリウス一三世に、「自らを事実上の頂点とする軍事国家日本ここにあり!」とのメッセージを伝えることにあったとみられる。
石高制の導入によって誕生した常備軍が、以後、本格的に天下統一戦の原動力になっていった。