信長の天下統一事業にあっては、天正八年がひとつの画期となった。勅命講和を成功させ大坂本願寺を紀伊雑賀(和歌山市)に退かせて以降、畿内近国において敵対勢力がいなくなったからである。

自らの権威を「天下」を預かる統治者すなわち天下人として上昇させつつ、朝廷とも良好な関係を維持しながら、諸国の戦国大名たちの国郡境目相論に積極的に介入し、停戦令を強制するようになった。

その一方で、信長は服属した地域に対して、一国単位で仕置を強制した。仕置すなわち城割によって抵抗拠点を破却して城郭を整理し、検地によって大名・国人領主の領地を石高で確定しつつ、所替、後には国替を強制しながら、領地と一体になった中世的な領主権を否定していったのである。

城の屋根と壁
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中世の常識を打ち破った石高制

信長が貫高ではなく石高制を導入したことは、きわめて重要だ。大名に対して預け置いた石高には、信長に果たす軍役高と本年貢以下の年貢を賦課する権限が含まれていた。

ここまでは貫高検地とさして異ならないが、それに加えて領地・領民・城郭がセットになった新たな統治概念すなわち「領知権」を導入したことが大きい。

戦国時代末期の畿内近国において、荘園制はなんとか余命を保っていたが、名主・百姓の中間得分(加地子かぢし)や耕作権はもとより、本所や領家がもつ荘園領主権すら年貢徴収権として分割・売買されていた。すなわち、諸権限の物件化と私有財産化が、広く進行・浸透していたから、その所有をめぐって戦乱が絶えなかったのである。

信長、後に秀吉は、戦争をあおり大規模に戦禍を広げながら中世を破壊していった。そのねらいこそ、検地を通じて戦国大名の領地を収公して国土領有権として統合し、天下人が麾下の大名に対して、その実力や期待値から判断した領知権を石高という数値で表示して預け置くことにあった。

大名が預けられた数万石から数十万石といった石高には、軍役高や年貢賦課権のみならず、そこで暮らす町人や百姓と彼らが暮らす町や村、そしてなによりも城郭が必ず含まれていたことこそ重要なのである。これが、戦国大名の貫高制検地との大きな違いだ。

領地・領民・城郭を一括することで、まったく新たな統治システムが創出されたのである。信長版DXとでもよぶべきであろうか。これら領知の対象を一括して石高として数値化して表現したところが革命的だった。

しかも、それらはすべて天下人が大名に預けたものであり、中世のような私有の対象ではなかった。これによってはじめて大名の国替が可能になり、同時に百姓は移動が許されず耕作に専念することになった。なによりも、領地をめぐる戦争がありえなくなったことに着目するべきである。

なお、このように高く評価すると、実態としての立ち遅れにもとづく反論が予想される。ここでは、信長が打ち出し秀吉が継承した支配理念に絞って指摘したことをお断りしたい。