このもやもやは、慣れてしまえばじきに消えるのか…
ちょうどこのころ、ぼくは工場で働く約4万人を対象とするコミュニケーション制度の改善にアサインされました。
ぼくは夢中になって制度の改善に取り組みました。アンケートにくわえて11工場を回り、現場をよく知る部門人事の方や実際に生産ラインで働く250人以上の社員にヒアリングして、困りごとをなくすための改善策をいくつか起案しました。
ぼくは充実していました。現場の人から「ありがとう」と言われると、本当にうれしい気持ちになりました。
もう、ぼくや同期、ほかの会社の同級生たちが感じている閉塞感なんてどうでもいい。そんなのは、きっとほかのだれかが改善してくれる。このもやもやも慣れてしまえばじきに感じなくなるし、流された方がきっと楽だろう。
しかし、そう自分に言い聞かせている間にも、同期や先輩は1人またひとりと辞めていきます。
「自分の人生を生きている感じがしない」
「自分1人ではなにも変えられない」
みんな最初は、トヨタのなかでやりたいことや希望を持っていた人たちばかりでした。なかには、将来的に副業も考えているから、という人もいました。ほかにも話を聞いてみると、先輩のなかには、実はすでに本業以外にやりたいことを見つけている、という人もいました。
「みんな、会社のなかでは本当の自分を隠している」
そう思うと、やり切れない気持ちになりました。どうして一社終身雇用を前提とした契約の形しかないのだろう。副業、業務委託、あるいは雇用でも週3正社員など、もっと多様な契約の形があれば、こんな苦しみを味わわなくてすむのではないか。
「社員7万人の大企業」一律平等でないことは悪なのか
もちろん例外として、イレギュラーな働き方が許容されるケースはありました。しかし、それを会社全体のしくみとして選択できるようにする、となると途端にハードルが高くなりました。選択できる人とできない人の間で不公平感が生まれる、一律平等が崩れてしまう、という理由から進まない施策を目にしたのも、1回や2回ではありませんでした。
トヨタは7万人のチームです。当然、役割に応じて事情も違えば困りごとも違います。
いいクルマをつくるために、多様な人たちが活躍できる組織になることは、そんなに悪いことなのでしょうか。十把一絡げではなく、1人ひとりの個性に合わせたしくみが選べるようになれば。気づけばまた、どうすればトヨタで多様な人がいきいきと働けるのか考えはじめていました。
しかし、ぼくの目の前には、とてつもなく大きな壁が立ちはだかっていました。
時間や場所の自由は利かず、コミュニケーションは一方通行で限定的。健康管理の支援は期待できず、突然、想像もしていなかった部署に異動させられてしまうかもしれません。数多ある一律の研修を潜りぬけてうん十年と年齢を重ねてもなお、気づけば専門性はなく、そのころには評価の軸が変わっている可能性だってあります。