改善に向かうきっかけとなる「エマージェント」

本人が自覚していないこころの動きが、何らかの拍子に突然立ち現れる。河合氏はそれを「エマージェント」と表現した。エマージェンスが起こると、こころの問題の改善に向かうきっかけになることが多い。立ち上がったのに、再び「座って」しまうこともあるが、それでも気長にセラピーを続けていくうちに、クライエントは自分で立ち直る力を手にしていく。

ひとりで悩んでいるだけでは、このようなこころの状態にはなりにくいし、エマージェントな動きを発見できない可能性が高い。こころの動きは「シェアされること」が重要なのだ。そのためにセラピストは安全で守られたスペースをクライエントに提供する。

河合氏が心理療法でクライエントと初めて対面したのは、大学院1年のときだ。以来、もう40年近く臨床現場に立ち続けている。研究と臨床を両方行うことの意義を次のように語る。

「セラピーを必要としている人たちは皆、苦しみ悩んでいます。心理療法によってこころへアプローチすることは、普通ではない状態を調査することになります。普通の状態のこころを知ることももちろん大切ですが、普通ではない追い込まれた状態だからこそ、こころのさまざまな側面が見えてくるのです」

個別の事例には、非常に大きな力がある

さらに、クライエント一人ひとりに向き合い、個々の事情に深く寄り添い関わっていくことでしか、得られない気づきがあると語る。これは、自分が心理療法を行う場合だけでなく、他の人の事例を検討することでも同様だという。

チーム・パスカル『いのちの科学の最前線 生きていることの不思議に挑む』(朝日新書)
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「個別の事例は、非常に大きな力を持っています。事例報告会などでは、クライエントの個人情報が守られる形で治療の経過などを報告しますが、それを見ると、どうしてうまくいったのか、どこで間違えたのかなどがよく分かります。そのような事例検討は、専門家の参考になるだけでなく、一般の人にとっても有効だと思います。どんな人のどんな苦しみが、どんな過程を経て回復したのかという話を本などで具体的に読むと、自分に応用できるようになる。物語の持つ力と言えるかもしれません」

心理学をサイエンスの土台に載せるためには、すべての現象に共通する法則性を見出さなくてはならない。それができない以上、個々の事例は「物語」にしかならない。

だが、こころから生まれた物語は、確実に人の生きる力を引き出している。クライエントが見せてくれるこころの働きは、その場限りの現象なのか、それとも普遍的ないのちの姿なのか。この問いをサイエンスの言葉で答えることは、今はまだできない。

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