初の死亡者
神奈川県庁の対策本部にも、感染した乗客に初の死亡者が出たというニュースが流れた。搬送調整の助っ人に入っていた山崎元靖は、テレビ画面にくぎ付けになった。
「自分たちが入院先を調整した患者さんかもしれない……」
実際そうかどうかは定かでない。それでも、ざわつく心を鎮めるのに時間がかかった。
2月9日に船を下りてから山崎は病院勤務に戻ったものの、合間を見ては県庁の対策本部に顔を出し、陽性が判明した人を入院先に振り分けるチームに加わっていた。
重症者のための病床には限りがある。患者をトリアージして、受け入れる病院のなかから、重症治療ができる高度医療機関に運ぶべきかどうか、どの地域かを判断しなければならない。診察どころか顔を見ることさえできないなかで、わずかな情報だけが頼りだ。短時間にすべて完璧にできればいいが、実際それは不可能に近い。
新型コロナウイルス感染症は、軽そうに見えた人が急激に悪化する場合があると、この間の経験から誰もが感じはじめていた。恐ろしい不安定要素を抱えながら、乏しい判断材料をもとに手探りで対応せざるをえなかった。
亡くなった患者は、別の病院なら救うことができただろうか。それはわからない。救急や災害の現場では、瞬時に判断を下さなければならない場面に次から次へと追われるのが常で、躊躇していては前に進めない。それは宿命でもある。
トリアージは、場合によっては一人の患者の運命を左右する瞬間なのだ。ニュースを聞きながら、山崎はその重みをかみしめていた。ほかの仲間も、同じだったろう。救える命は、必ず救う。救いたい──。そのために、もっとできることはないか。
うっすらと見えてきた「敵」の正体
関係者はこのころ、判断の指標となる手がかりをつかんでいた。
それは、藤田医科大学の施設にまとめて患者を送りはじめた18日のことである。自衛隊中央病院に続き、患者を「塊で」搬送する話が実行されようとしていた。
藤田医大は名古屋に隣接する愛知県豊明市にあるが、この年4月、岡崎市に新しく藤田医大岡崎医療センターを開院予定で、その建物を、陽性だが症状のない人や濃厚接触者の待機施設として提供した。18日夜に出発した第一陣の陽性者24人とその家族8人の計32人を手はじめに、最終的に100人以上が運ばれることになるが、このうち1割ほどは、岡崎に着くとすぐに肺炎の疑いで別の病院に転送されている。
山崎は、かねて親交のある藤田医大救急総合内科教授の岩田充永から、受け入れ態勢についてあらかじめ相談されていた。
「うちも患者さんを受けることになったんですけど、どうすればいいですかね。岡崎医療センターではまだ診療はできないんですよ」
岡崎医療センターは病院の建物ではあるが、開院前なので厳密に言えばまだ「病院」ではない。のちに一般化するコロナ療養のために自治体が借り上げたホテルのような「宿泊施設」の扱いであり、「入院」と同等の医療を提供できるわけではなかった。
しかも運ばれてくる人たちは、横浜で綿密な診療や検査をしているわけではないから、病状の詳細はわからない。移動しているうちに具合が悪くなるおそれもある。愛知県内ではまだ一人も感染者がいなかっただけに、受け入れ側の緊張感は高まっていた。
ただ、未経験ゆえに実感が伴わない面もあり、岩田自身は内心こんな思いでいた。
「ただの風邪だろ……。騒ぎすぎだよ」
しかし、山崎らは、元気そうな様子から急激に重症化するという見たこともない経過をたどる患者に遭遇してきた。自衛隊中央病院の救急医で一等陸佐の竹島茂人から聞いた最新情報も、それを裏付けるものだった。
「特に症状がなくても、CTを撮ると肺炎になっている患者さんが結構いるんですよ」