「押し付け憲法論」のどこがおかしいのか
日本国憲法の制定は、このポツダム宣言の内容の履行という国際的義務を果たす過程において、必須の事柄として、導入された措置である。大日本帝国憲法をそのまま残しておけば、「基本的人権ノ尊重」や「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立」といったポツダム宣言の「基本的目的」を達成することは不可能だと考えるのは、自然であった。
右派の「押し付け憲法」否定論者は、「ハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第43条が、「占領者は絶対的の支障なき限り占領地の現行法律を尊重して」公共の秩序や市民生活の回復に尽力すべし、と定めていることをもって、占領下で大日本帝国憲法を置き換える形で作られた日本国憲法は無効だと主張する。
だが「特別法は一般法を破る」という法学的原則を参照するまでもなく、占領前に日本国と連合国がポツダム宣言受諾という形で、統治政策の基本的枠組みに関して合意している以上、その実施に必要だった施策を、ハーグ陸戦法規を持ち出して否定することはできない。
とはいえ、戦後の日本において、ポツダム宣言が持つ国際効力を語ることはタブーであった。右派の改憲派は、日本国が拘束されていた国際的義務をイデオロギー的立場から無視し、結果として日本国憲法に内在する国際協調主義の性格も軽視する傾向を持っていった。
GHQが憲法草案を作る決断をしたそもそもの理由
左派はどうだろうか。1945年当時、東京大学法学部憲法第一講座担当教授として、学界の頂点に君臨していた宮澤俊義は、政府が憲法改正のために設置した「松本委員会」の有力委員であった。マッカーサーをして、「こんなものでは(ポツダム宣言の履行とみなせず)連合国が構成する極東委員会を通せない」と感じさせ、連合国軍総司令部(GHQ)で憲法草案を作る決断をさせたのは、大日本帝国憲法とうり二つの、宮澤が起草した松本委員会憲法草案であった。
そのため、宮澤は、GHQ草案を目にした際、強い衝撃を受けた。ドイツ国法学の論理構成に慣れ親しみ、自らの権威も大日本帝国憲法の威厳に依拠していた宮澤は、主権者の交代は憲法改正の範囲を超える、という論文を書いたこともあった(ただし実際の大日本帝国憲法にそのようなことを定めた文言があったわけではなく、戦前の東大法学部系の憲法学者が、ドイツ国法学の理論にしたがってそのように主張していただけである)。