プーチン政権はロシア経済を大きく回復させた。だが、ウクライナ侵攻でロシア経済は危機に立たされている。外交評論家の河東哲夫さんは「今、プーチンは正念場にある。プーチンの繁栄を支えてきた柱を自ら崩したからだ」という――。

※本稿は、河東哲夫『日本がウクライナになる日』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。

安全保障理事会のビデオ会議に出席したロシアのウラジーミル・プーチン大統領
写真=EPA/時事通信フォト
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領

ソ連崩壊後に訪れた、暴力とカネが支配する世界

1991年ソ連崩壊後の30年間、モスクワの雰囲気はめまぐるしく変わってきた。当初、何でも統制の社会のタガが外れて、何でもありの混沌・混乱状態となったのが、原油価格上昇のおかげで次第に落ち着き、街は西側に近いしゃれた感じになっていく。「幸せになったソ連」。僕は当時のロシアをそう形容したものだ。

なぜソ連かと言うと、消費生活は見違えるほど良くなったが、統制の方はまた見違えるほど復活してきたからだ。話は少し戻るが、その過程を述べてみたい。

1992年1月2日、ソ連崩壊で全権を掌握したエリツィンが、それまで国が全部決めていたモノの価格を一斉に自由化したからたまらない。パンの値段が1日で2倍になることも珍しくない、ハイパー・インフレとなった。たった2年間でルーブルの対ドル価値は6000分の1に落ち込んだのである。

当時は僕も、ロシアで誰かを食事に招待した時など、何センチもの厚さの札束をいくつも袋に入れて出かけたものだ。

街の雰囲気は激変した。ソ連末期、流通を握ったマフィアがインフレを予期してモノを退蔵し、店には文字通り何もなかった。しかし、価格自由化後は街路に粗末なキオスクが林立し、アパートの一階には「商業店」なるものがやたら増えて、西側の安っぽい化粧品や装飾品を並べた棚の向こうに、口紅を分厚いバターのように塗りたくった女店員が座っているようになったのだ。それは何でもありの、暴力とカネが支配する世界。僕も、血だまりに横たわる死体のそばを車で通り過ぎたことがある。

ソ連崩壊は改革にはつながらなかった

こんな状況だったが、インテリたちは、「やっと自由と民主主義の社会になった」として改革への期待に燃えていた。自分でベンチャー・ビジネスを始める意欲に燃えた青年も多かった。

そして混乱も3年ほど経つと、西側の資本がちらほらとスーパーやショッピング・センターを開き始めた。ソ連時代は顧客に微笑むことなどなかった女店員たちがぎこちないスマイルをしてくる。社会主義時代は、客にスマイルするのは気がある時だけだった。

やがてそのスマイルも自然なものになってきた頃、社会は落ち着いた、というか利権の再配分が終わって、その汚い傷にかさぶたがかぶさったような具合になった。ソ連崩壊は改革にはつながらず、ただの利権の取り合いで終わってしまったのだ。