独立宣言、ソ連軍の介入、国民投票へ…

バルト三国には第二次世界大戦後、多数のロシア人が移住しています。彼らは、当然ですが、独立の動きが高まるのに対し、ソ連残留を望みました。

リトアニアが独立を宣言すると、親ソ派はソ連軍の介入を要請し、ソ連軍がリトアニアの首都ビリニュスの放送局を占拠しました。この時、14人の死者と数百人の負傷者が出ています。さらに、ラトビアの首都リガでも、ソ連軍が内務省などを攻撃し、死傷者が出ました。

しかし、このソ連軍による攻撃のあと、リトアニア、ラトビア、エストニアでそれぞれ独立の是非を問う国民投票が実施され、リトアニアでは9割、ラトビア、エストニアでも7割以上が独立に賛成という結果が出ます。

親ソ派のクーデターの失敗

ゴルバチョフ大統領は、三国の自治権を認めつつ連邦に残留させられないか探りますが、ソ連政権内の保守派は、バルト三国に妥協的なゴルバチョフに危機感を募らせ、クーデターという行動に出たのです。

クーデターが起きると、バルト三国内でも親ソ派がソ連軍と共にテレビ局や電話局を占拠しましたが(エストニアではテレビ塔の占拠に失敗)、クーデター反対に立ち上がった市民によって退去させられました。

モスクワのソ連保守派のクーデターも失敗し、その4カ月後にゴルバチョフがソ連の解体を発表しました。こうして見ると、バルト三国の独立がソ連解体への直接の引き金になったといえるでしょう。

「歌う革命」で平和的に独立回復

ところで、バルト三国のそれぞれの国に、大規模な「歌と踊りの祭典」があることを知っていますか?

バルト三国の「歌と踊りの祭典」はユネスコの無形文化遺産にも指定されています。エストニア、ラトビアでは5年ごとに、リトアニアでは4年ごとに行われています。

19世紀後半に始まり、各地から民族衣装を身につけた人々が集まって、歌と踊りを披露します。最大規模のエストニアでは何万人もの歌い手とダンサーが登場し、聴衆と合わせて10万人以上が参加する国を挙げたイベントなのです。